酪農家にスポーツカーを!

オールインワン 代表取締役社長 三谷 廣さん

Interview

2009.07.16

1988年、世界最大の穀物商社カーギルが九州に進出した。(株)オールインワン代表取締役社長 三谷 廣さん(69)は、製造技術を公開、販売網も提供して協力工場を稼働させた。業界から「大バクチ」と非難された。
「勝負の答えは牛を飼う農家にある」と信じた三谷さんは、鉄鋼会社からの「転身組」だ。(株)オールインワンは、牛の飼料のエポックメーカーとなった。餌の製造、開発にとどまらず、畜産・酪農家の規模拡大と経営の近代化をサポートする業界ナンバーワンだ。
最後までやり通さないと美しくない・・・。三谷さんのダンディズムが、畜産・酪農事業の常識を変える。

※(カーギル社)
本社:アメリカ合衆国ミネソタ州ミネアポリス市。世界52カ国に販売組織を持ち、800以上の子会社、事業所を持つ世界最大の多国籍企業。米国や欧州連合(EU)などの穀物輸出の担い手であり、世界穀物貿易を支配している。

世界最大企業の懐に入る

日本の飼料業界が危ない。誰もカーギルに寄り付かない。「未知の、世界最大の穀物商社です。懐に飛び込むと何か発見があると思いました。内側の面白い話も聞けます。弱みもよく分かります。それに製造しても、既に出来上がっている市場に簡単に割り込めないだろうと思いました」。三谷さんはカーギルに乗りこんだ。

「思うように売れずに困っていました。農家は農協を通じて国の保護政策を受けていますから、カーギルから飼料を買うと、そのメリットがなくなります」。日本の飼料市場は農協が大半を押さえている。世界最大の会社は、農協パワーの認識が甘かった。

「パートナーになろうと声をかけると喜びました」。オールインワンは九州に自社工場が無かった。北海道に次いで畜産農家の多い九州に工場が欲しい。飼料をカーギルの鹿児島工場で造れば、農家に届ける時間と距離が短縮できる。コストも下がる。しかし製造技術公開のリスクと農協に嫌われる恐れがある。社内でも意見が分かれた。

「巨大な相手にのみ込まれる。大バクチだと大方の人から言われました。しかし畜産農家の役に立つのならリスクをいとわない。発想を変えてカーギルの技術者と一緒に、うちと同じコンセプトの餌を製造すればいい。そう考えたんです」

決めるのは農家

鹿児島工場で造った製品は正面切って農協ルートでは売れなかった。「これでオールインワンはスポイルされる」。同業者の目は冷ややかだった。
農家を一軒一軒訪ねて営業した。「これまでと同じ飼料です。鹿児島で造った新鮮な餌を、造ったその日に、牛の鼻先まで届けます。値段も安くなります」。農家の反響がすごかった。その声が農協を動かした。九州での売上は5倍以上になった。

最大で唯一の実力者は牛を育てる農家だ。決めるのは農家だ。農協やメーカーや代理店ではない。三谷さんは、この時、学んだ。「農家のためだったら、他を敵に回してもいい」。三谷さんの腹が据わった。

農家のために、No.1のサービスを

「農家のためになるか」「ものまねでなく新しいか」「やっていて楽しいか」…三谷さんはこの三つを満たさない仕事は認めない。「楽しいことが大事です。苦しくてもやれと言わないのは、経営者として甘いのかもしれません」

「甘さ」は経営者としての自信だ。「農家に接するのは社員です。業界No.1であるためには、社員が楽しくないとレベルの高いサービスを維持できません」 オールインワンは代理店に販売を任せきりにしない。農家に直接営業する。「営業マンと獣医師が訪問して、餌の売り込みと牛の状態をチェックします」。農家から、厚い信頼を得た理由だ。

96年、ホクレンとも提携した。「北海道の工場でも餌が造れるようになりました。同じコンセプトでやってくれる同業者と提携して、98年には生産拠点が全国12カ所になりました」
北海道の北端から沖縄の石垣島まで、全国に販売網を持つ業界のトップブランドになった。

※(ホクレン)
北海道の農協。ホクレン農業協同組合連合会の略称。

牛の飼育を産業へ

1969年、日本で初めて牛の飼料として「コーンフレーク」の製造に成功した。71年、アメリカの乳牛、肉牛飼料のコンセプトで配合飼料「オールインワン」を開発、80年に製造特許を取った。

「畜産はアメリカの余剰穀物の利用から始まった産業です。まだ日本ではトウモロコシの粉を使っていた頃、アメリカでは熱を加えて消化吸収を良くする、『フレーク化』が始まっていたんです」 牛の餌はトウモロコシなど穀類の他に、ビタミンやミネラルなどを含む粗飼料(牧草など)が必要だ。「穀類と粗飼料を混合して、牛に必要な養分を供給できるように調整しました」

当時流通していたほとんどの飼料は、穀類と粗飼料が別々だった。かいば桶でぬかなどを混ぜて餌を与えていた酪農家は、100頭もの牛を飼うことはできなかった。
配合飼料「オールインワン」の開発で、多頭化飼育が可能になった。牛の飼育が一次産業から二次産業へ。畜産・酪農の概念が変わった。

後継者が育つ仕組みを

40%を切った日本の食糧自給率。後継者不足で離農率も高い。危機感を持った三谷さんは、北軽井沢で酪農家と一緒に規模拡大の仕組み作りに取り組んでいる。
「牧場の横に飼料工場を造って、コストの安い新鮮な餌を供給できるようにしました。家族で20頭ほど搾乳していたのが、数百頭の規模になりました」。搾乳も8時間おきで交代制だ。休みも取れる。そして給料制だ。

「法人ですから普通の会社と同じで、社長も牧場長もいます。オヤジ時代の休めない仕事から解放されて、子供たちが都会から戻って働いています」
規模拡大で競争力を付ける。軌道に乗れば株式会社に。さらに上場へ。楽しくなければ後継者は育たない。「後継者に農機具よりスポーツカーを与えたい」
あきらめない。最後までやり通さないと美しくない。日本の食糧自給率を上げるために・・・三谷さんのダンディズムだ。

生き方の美学

鉄鋼会社に入社して間もない頃、銀座百年祭(1968年)の記念事業で、街灯を新設するコンペに、社命で参加した。
電通や博報堂、それに日本を代表する有名デザイナーが応募した。中間発表で見た他のデザインはどれも素晴らしかった。「太刀打ちできないから無駄です」。課長に言った。「主催者が一番望むものは何か考えてもう一度やり直せ。途中で投げ出したら将来に何も残らない」。しかられた言葉がこたえた。

夜の銀座に行った。ネオンで明るい銀座の夜は人と車が多かった。明るさは必要ない。もし街灯に車がぶつかって、歩行者にガラスが落ちたら危ない。モダンさよりも、歴史の重みが大事だと思った。結果は「安全性とクラシック」にテーマを絞った三谷さんたちのデザインが採用された。
勝つのは強者ではない。相手の望むものに一番近づいた者が、たとえ弱者でも勝つ。そのための工夫を最後までやり通す。この経験が三谷さんのキャリアを決めた。

それから十年ほどたった頃、取引先が倒産した。担当部署の責任者になって5日目だった。大半の役員が三谷さんに非難を浴びせた。「本当の責任者は誰だ」。役員たちに社長が激怒した。
「言い訳は美しくない。その部署の責任者は私ですから」。社長に留められたが、部下の責任を問わないことを条件に会社を辞めた。

「ストイックな価値観ですが、この一件は、私の心を鍛えてくれました」

三谷 廣 | みたに ひろし

略歴
1940年高松市生まれ。法政大学卒業。大阪大学大学院システム経済学修士課程修了。丸一鋼管(株)で経理部、マーケティング・市場開発などに携わる。その後(株)オールインワン専務取締役本部長を経て、99年より同社社長に就任、現在に至る。

株式会社オールインワン

住所
香川県東かがわ市三本松2123
代表電話番号
0879-25-2466
設立
1956年
社員数
130人
事業内容
牛用専門配合飼料の製造販売
沿革
1956年 太陽糧穀産業株式会社創立
1960年 「乳牛・肉牛飼料の専門メーカー」路線スタート
1969年 日本で初めてトウモロコシの“フレーク加工”に
    成功、フレーク飼料のパイオニアとなる
1971年 アメリカの乳牛・肉牛のコンセプトに基づく
    「オールインワン」の開発に成功、日本初のコン
    プリートフィードとして“乳牛・肉牛飼料の革命”
    と脚光をあびる
1972年 「オールインワン」製造特許申請
1977年 社名を「株式会社オールインワン」に変更
1980年 「オールインワン」の製造特許取得
    (No.1026573)
    畜魂碑建立(全国和牛登録協会会長 上坂章次先生
    御揮毫)
1981年 東日本工場完成(宮城県石巻市)
1983年 7つの支店サービス網確立
1988年 世界最大の穀物商社カーギル社との協力工場稼動
1990年 韓国・韓一飼料株式会社に技術供与
1992年 台湾・三福産業公司に技術供与
1996年 ホクレンと業務提携
1998年 生産拠点全国で12カ所に
2000年 湯がきのいらない世界初の本格パスタ発売開始
2001年 ドイツKWS社と契約、種子ビジネス開始
    酪農密集地にTMR(完全配合飼料)センター
    設置開始
2006年 オールインワン創立50周年
地図
確認日
2009.07.16

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