榎本武揚とともに函館五稜郭で戦った塩飽人

シリーズ維新から150年(15)

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2019.06.20

古川庄八(多度津町立資料館蔵)

古川庄八(多度津町立資料館蔵)

慶応4年(1868)4月11日、江戸城が無血開城されます。これを不服とした幕府海軍の副総裁だった榎本武揚ら一部の旧幕臣は8月19日、旧幕府艦隊の開陽丸を旗艦とする8隻の艦隊を率いて江戸を脱出し、北海道へ向かいます。旧幕府艦隊には多くの塩飽諸島出身の水夫が乗り込んでおり、開陽丸の水兵頭を務めていた瀬居(せい)島(坂出市)出身の古川庄八(しょうはち)がリーダー的存在だったようです。明治と改元されたこの年の10月22日、戊辰戦争最後の戦いである箱館戦争(五稜郭の戦い)が始まります。塩飽の水夫たちも旧幕府勢力に加わり戦っています。

塩飽の島は幕府領でしたが人名(にんみょう)という自治権を認められており、島民は幕府の御用水主(かこ)を務めていました。幕府が長崎海軍伝習所を開設した際にも塩飽から多くの者が幕府艦隊の水夫になっていました。榎本と庄八は草創期における長崎海軍伝習所以来の関係で、文久2年(1862)に幕府が造船、操船などの技術研究のためわが国で初めてオランダに留学生を派遣したときにも、一緒に渡欧しています。士官、水夫という身分の差はありましたが、いわゆる同じ釜の飯を食った間柄だったと思われます。3年の留学を終えた榎本と庄八は、幕府がオランダに発注した開陽丸に乗り込み帰国します。

明治2年(1869)5月18日、五稜郭で榎本軍は政府軍に降伏し、戊辰戦争は終結します。榎本と古川は一時期獄舎生活を強いられますが、その後、榎本は新政府の官吏に登用され、古川もオランダ留学の技術を買われて横須賀の造船所で技師として活躍します。庄八と榎本の交友は晩年まで続いたといわれています。

ちなみに日本画の東山魁夷画伯の祖父は櫃石島(坂出市)の出身で、同じく幕府海軍の水夫として箱館戦争を戦ったといいます。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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