満濃池を改修した勤王の人

シリーズ維新から150年(16)

column

2019.07.18

満濃池湖畔にある松崎澁右衛門辞世の歌碑。「君の為国の為には惜しからじ 仇に散りなん命なりせば」

満濃池湖畔にある松崎澁右衛門辞世の歌碑。「君の為国の為には惜しからじ 仇に散りなん命なりせば」

今から約1,300年前に築造された満濃池は、何度か決壊し、その度に修築されてきました。最後に決壊したのは、ペリーが再来航した幕末の嘉永7年(1854)です。この年の7月9日に起きた伊賀上野地震により池の樋管の側壁に亀裂が生じて水が噴出し始め、1カ月後ついに決壊します。同じ年の暮れには東南海地震、その約1年後には安政江戸地震が発生しています。

こうした中、榎井村(現琴平町)の豪農・長谷川佐太郎が池の復旧に立ち上がります。佐太郎は桂小五郎を自宅に匿うなど勤王運動にも挺身した草莽(そうもう)の志士でした。しかし池の水掛かりが高松・丸亀・多度津の3藩に跨がり一部に天領も含まれていたため復旧に意見の一致を得ることができず、池は決壊したまま16年間も放置されます。

事態が動いたのは明治維新になってからです。佐太郎はかつての勤王の同志を頼って新政府に満濃池早期復旧の嘆願書を提出します。この陳情が功を奏し高松藩執政・松崎澁右衛門(しぶえもん)の強力な支援のもとに明治2年(1869)9月16日ようやく着工にこぎつけます。このときの改修工事は堤防西隅の大岩に穴をあけトンネルを底樋とするものでした。

澁右衛門は高松藩家老の家柄の人で、長谷川宗右衛門が伯父にあたります。水戸藩弘道館に学び尊王の思想を身につけたといいます。禁門の変後家老を罷免され、高松藩が新政府に降伏するまでの約4年間獄に繋がれます。出獄後、再び高松藩の要職に復帰しますが、復旧工事着手直前の9月8日、恨みを買っていた旧佐幕派により高松城桜の馬場で暗殺されます。ところが高松藩はこの事件を自殺として新政府に届け出て不祥事の隠蔽を図ります。

翌3年6月満濃池の堤防が復旧します。この間、佐太郎は1万2千両にも及ぶ私財を投入し晩年には家屋敷も失ったといいます。澁右衛門の暗殺事件の真相は、その後、新政府の知るところとなり、明治4年4月謀殺に関与した高松藩士が処断されます。その年の7月には廃藩置県が断行されます。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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