坂本龍馬の片腕だった塩飽の水夫

シリーズ 維新から150年(10)

column

2019.01.17

右端が佐柳高次と伝えられている(多度津町立資料館蔵)

右端が佐柳高次と伝えられている(多度津町立資料館蔵)

海援隊といえば、幕末、坂本龍馬が中心となって作った結社で、洋式船を操り、武器や物産の貿易に従事したことで知られています。この隊士の中に、呼び名を佐柳高次(さなぎ こうじ 本名・前田常三郎)という塩飽諸島の一つ佐柳島(現多度津町)出身の人物がいました。

ペリー来航により海防の必要性を痛感した幕府は、長崎に海軍伝習所を開設し、勝海舟や榎本武揚ら旗本と各地から徴用した水夫(かこ)に洋式の航海術を修得させます。この中に塩飽衆も加わっており、高次はその中の一人でした。高次は勝に従い、水夫として咸臨丸に乗り込み、日本人による初めての太平洋横断にも加わっています。

その後、勝は神戸に海軍塾を作り、わが国の海軍近代化のための人材育成に尽力します。このとき門下生として入ってきたのが龍馬です。こうして高次は龍馬と接点を持つことになり、以後、亀山社中、海援隊と龍馬の片腕として行動を共にします。

慶応3年(1867)4月23日(新暦5月26日)午後11時頃に、高次が航海長をしていた海援隊の「いろは丸」が長崎から大坂に向かっていたところ、東から来た紀州藩船の明光丸と衝突し、沈没する海難事故が荘内半島沖で発生します。このとき高次は龍馬とともに相手の船に乗り込んで航海日誌を証拠品として押さえたといいます。この事故は、日本で最初の海難審判事故といわれており、龍馬は万国公法を持ち出し紀州藩側の過失を追及し多額の賠償金を得ています。なお、龍馬が暗殺されたのは、この年の11月15日(新暦12月10日)です。

龍馬の死後、高次は新政府の軍艦陽春丸に士官の肩書で乗り込み、箱館戦争に従軍します。その後も海運にかかわる仕事を続け、最後は故郷の島に帰っています。高次は「坂本龍馬神宮」と大きく書いた幟に、亡くなった同志の名前を記し、毎日供養礼拝していたといいます。今、高次は、佐柳島の乗蓮寺という寺で静かに眠っています。

次回(2月21日号)は、慶応4年(1868)1月の鳥羽伏見の戦いで高松藩が賊軍になったときの話です。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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