開発の海(その1)
-塩田が消え、工業の海へ―

工代祐司

column

2026.06.04

1922(大正12)年頃 御供所の港から五色台方面を望む。沿岸一帯、入浜式塩田が続く。(坂出市教育委員会提供)

1922(大正12)年頃 御供所の港から五色台方面を望む。沿岸一帯、入浜式塩田が続く。(坂出市教育委員会提供)

遠く感じた海

香川県はどこからでも海が近く、海岸線も長い。私が生まれた1950年代半ば、まち場の海岸線一帯には塩田が広がり、自然海岸はほとんど残っていなかった。

生れ育った坂出は、日本有数の塩の産地で、東の松浦塩田から西の沖ノ浜まで、沿岸はすべて塩田地帯であった。遊びに夢中で、つい塩田に入り込んでしまうと、即座に「こらあ」と管理人に追いかけられる。海はすぐそばなのに、海辺には近づけない。子ども心に、海は「遠い場所」に思えた。

海は豊かだった

塩田は人工の製塩設備である。干潟を干拓し、海水を引き入れ、太陽と風で塩を生み出す。江戸中後期には入浜式塩田が発達し約400haの塩田が開かれ、明治以降には約770haの塩田が築かれた。塩業は本県の主要産業となった。

しかし、それは海を壊すものではなかった。塩田は、人と海の均衡のもとに広がる、海と陸のゆるやかな境界であった。その先には遠浅の海が広がり、アマモが茂る豊かな海が息づいていた。

漁業も盛んだった。魚や貝を積んだ手押し車で、行商のおばさんがやってくる。祖母や母が世間話をしながら魚を選ぶ。海の豊かさが食卓を支えていた。

市の西端に御供所海水浴場があった。山裾ゆえにわずかに残った海岸で、私は泳ぎを覚え、貝を拾い、テングサを採り、小魚を追った。浜辺からは、後に陸続きとなる沙弥島や瀬居島を含め、のどかな瀬戸内海が広がっていた。

海の姿が変わりはじめた

だが1960年代後半、高度経済成長と歩調を合わせるように、沿岸は変貌していった。製塩の近代化と輸入塩の増加を背景に、塩田はすでに転用が進んでいたが、1971年の廃止決定を機に、残る約1,000haも順次、工業団地や新都市建設へと姿を変えた。それは経済後進県からの脱却の大きな基盤となった。

しかし、単なる産業の転換ではすまなかった。高度成長の過程で、沿岸の埋立てが進み、海砂の採取や工場排水などにより、海の姿が大きく変わっていった。

私たちは、瀬戸内海の懐の深さに頼り、さらに負荷を重ねていった。その影響は次第に顕在化し、人と海との共存は大きく揺らいでいったのである。
(文 工代祐司)

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