開発の海(その2) -重化学工業への脱皮―

工代祐司

column

2026.07.02

1966(昭和41)年「番の州の埋立て」瀬居島、沙弥島もまだ陸続きではない。[造成面積620ha](坂出市教育委員会提供)

1966(昭和41)年「番の州の埋立て」瀬居島、沙弥島もまだ陸続きではない。[造成面積620ha](坂出市教育委員会提供)

石油の時代

私が生まれた1950年代半ば、日本は高度経済成長へ向かう入口にあった。幼い頃、風呂は松葉や薪で沸かし、ご飯はかまどで炊いていた。

そこへ石油の時代がやってきた。1960年代、日本は中東から大量の安価な石油を輸入し、重化学工業を軸に急成長していった。臨海コンビナートで石油を精製し、電力や素材を生み出し、それを基盤に工業製品を大量生産して輸出を伸ばした。地方の夢は「工場を誘致すること」だった。

国は「新産業都市」政策などで地方の工業化を進め、瀬戸内海沿岸でも水島(岡山)、東予(愛媛)、徳島などが指定された。しかし香川県は、その流れから取り残された。工業用水や用地不足が制約だった。

府中ダムの建設と坂出沖の番(ばん)の州(す)の埋立てには、「工業後進県から脱したい」という香川県の悲願が込められていた。

海が工場に

1965年、私が小学2年のとき、番の州の埋立てが始まった。備讃瀬戸航路の浚渫土が投入され、遠浅の海は日に日に陸地へ変わっていく。後に故・平井城一知事は、この変貌を「滄海変じて桑田となる」と評したように、海は全く違う風景へ姿を変えた。

小学校の担任が、「都会から優秀な子どもが来るぞ。お前たちも頑張れ」と私たちを鼓舞した。当時、大企業の立地は地域の希望そのものだった。

中学生の頃、1970年代初頭には、石油精製、火力発電、造船、化学工場などが集積する臨海コンビナートが姿を現し、夜には無数の灯りが海面に映っていた。瀬戸内海は、漁や塩づくりの海から、豊かさや便利さを支える産業の海へ変わっていった。

海の悲鳴

番の州工業団地の整備によって、県の製造品出荷額は大きく伸びた。若者の働く場所が生まれ、「香川も豊かになれる」という期待が広がった。

しかし、高校生になる頃には、豊かさの陰で、全国各地で公害が相次ぎ、連日新聞を賑わせるようになった。そして1974年、高校3年の冬、対岸の水島で重油流出事故が起きた。大量の重油が香川沿岸にも押し寄せ、「瀬戸内海は終わった」と本気で思った。

誰もが豊かさを追い求めていた高度成長の時代。しかし、その足元で、海は静かに悲鳴を上げていたのである。
(文 工代祐司)

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