大学までの野球経験で得たもの。―少しでも前に進むためには日々コツコツと努力しなければならない。―

東京商工リサーチ四国地区本部長兼高松支店長 影浦 泰一さん

Interview

2009.10.15

小学校4年生の時に始めた野球が、その後の人生に大きな影響を与えたのは言うまでもない。

始めたらすぐにはまったスポーツ、それが野球

東京商工リサーチ四国地区本部長兼高松支社長の影浦泰一さんは、大学を卒業するまで、毎日野球と向き合ってきた。「野球が盛んな愛媛という土地柄か、僕が子どものころ、男の子は、広場さえあれば野球をやっていましたねえ。他にすることもなかったですし」と、影浦さんは野球を始めたころをふり返る。幼い頃からすばしっこかったという少年は、野球の面白さに目覚め、「だんだんとはまっていきました」

肩の良さを買われ、守備位置は6年の時にサードからピッチャーに変わった。中学3年で遠投95メートルを投げる逸材を、県内の野球強豪校が放っておくわけがない。いくつかあった勧誘のなかで「1年でユニフォームが着られるから」という言葉で、進学する高校を決めた。県大会準優勝という成績が注目され、進学、野球での就職など誘いもいくつか来た。結局は大学進学を選び、入学してからも野球にどっぷりの日々が続く。野球技術を磨くことが中心の4年間だったが、得ることも多かった。恩師や友人、先輩後輩などとの出会いが、その後に様々な影響を与えることとなった。

おまえたちはプラチナではない、ブリキなんだ。

入学した亜細亜大学の硬式野球部は、東都大学野球連盟に所属し1部リーグで活躍していた。「入学前の2月、大学のキャンプに参加したんです。そのとき、周囲の投手はたいしたことなかった。これならいけると思ったら、実は違った。僕は2月のそのキャンプ時点に調子を合わせてマックスの状態で臨んだんですが、みんなそうじゃなかった。その後どんどん調子を上げてきた。参りましたね」

大学は4年間しかない。その間に力を発揮して、いかに監督に認めてもらうか。「投手としてベンチに入れるのは5人。4年生だからといって、全員が入れるとは限らない。監督の中には次期の構想もある。年下からの抜擢もあるわけです」。ポジション争いは熾烈だ。結局は実力を付けて認められることだ。にわかに練習したところで、力はつかない。日々の努力が実を結ぶことを実感した。

「当時の監督であった内田俊雄さんの教えは『全力疾走』。慢心を戒める言葉でもありましたね」。野球は記録に残らないプレーが勝敗を左右する。平凡な内野ゴロでも全力疾走を怠らず、守備では味方の暴投に備えて必ずバックアップする。チーム全員が、自分の適性や役割を理解して、チームワークを優先させ、最大限に発揮できたときに結果はおのずとついてくる、と。

また当時の総監督であり、おやじと親しんでいた矢野祐弘さんには、「おまえたちはブリキ軍団だとも言われましたねえ。東京六大学リーグに行く力のあるやつらはプラチナだ。何もしなくても輝いている。しかしおまえたちはブリキだ。ブリキは毎日磨いていないとすぐに錆びる。だからこそ選手それぞれが毎日自分を磨き、打った、投げたなどの派手なプレーではなく、俺のバントで、俺の走塁で、俺の送球で、この試合が勝てたと言えるように、毎日こつこつ積み重ねなさい、と」。

大学卒業後の人生に野球を選ばず、就職を決めて会社員になった影浦さん。今もこの言葉が生きているという。「諦めたら終わりです。たえず前に進まなければならない。それには、こつこつ勉強すること、毎日自分を磨くこと。その時々を一生懸命に取り組むことが、後々の自分の自信にもつながってくるんですね」。経験した人のみが持つ、力強さが伝わってくる言葉である。

影浦 泰一 | かげうら ひろかず

略歴
1965年 愛媛県松山市生まれ
1988年 亜細亜大学 卒業
1992年 株式会社東京商工リサーチ入社
2005年 松山支店長
2006年 高松支店長
写真
影浦 泰一 | かげうら ひろかず

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