讃岐でもあった建武政権に対する反乱蜂起

中世の讃岐武士(7)

column

2020.11.19

横浜市戸塚区にある高松寺

横浜市戸塚区にある高松寺

建武の新政が成ってから約2年後、鎌倉幕府残党により中先代(なかせんだい)の乱が起きます(建武2<1335>年7月)。この乱を鎮圧するため足利尊氏が京から鎌倉へ向かいますが、鎌倉を奪回した後も動こうとせず、後醍醐天皇の上洛命令を拒絶して建武政権に対して反旗を翻します。このため、新田義貞の軍が尊氏追討のため京から鎌倉に向かい、両軍は箱根の竹下で衝突し(同年12月)、この戦いに勝利した尊氏は京に攻め上がります。

この頃、讃岐では、細川定禅(じょうぜん)が尊氏に呼応して反宮方として鷺田(さぎた)荘(今の高松市鶴尾地区)で挙兵し、詫間・香西氏らの讃岐武士を率いて屋島近くの高松城(今の喜岡寺)に拠った宮方の高松頼重を攻撃します。定禅は鶴岡八幡宮の別当をしていた人物で、鎌倉幕府の残党を押さえるために尊氏から讃岐に派遣されていました。頼重は、本来の姓は舟木で、建武の新政の功により讃岐守護職を与えられ、高松郷(今の古高松地区)に城を築きその地名から高松氏を名乗っていました。

この戦いにより高松城は落城し、頼重は讃岐から逃れます。ちなみに、今の横浜市戸塚区に高松寺(こうしょうじ)という臨済宗の寺がありますが、この寺は高松頼重を開基として創建されたということです。そして、定禅はさらに反宮方の四国勢を結集して京へ攻め上がります。定禅に率いられた四国勢は中国勢と合流して入京し、関東から攻め上がった尊氏軍と共に奮戦し、京を占領します。しかし、奥州の兵を率いて上洛した北畠顕家に大敗し、九州へ海路逃れます。定禅も讃岐へ戻ります。

九州で巻き返しを図った尊氏は、大軍を率いて京へ海路向かい、讃岐にいた定禅も兵を率いて再び尊氏軍と合流します。そして、ついに湊川の戦(建武3<1336>年5月)で新田義貞・楠木正成の軍を撃破します。その後、尊氏は京・室町に幕府を開き、後醍醐天皇は吉野に逃れ、ここに南北朝時代が始まります(同年12月)。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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