土佐武士の讃岐侵攻⑥(東讃侵攻)

シリーズ 中世の讃岐武士(31)

column

2023.02.02

東かがわ市役所引田庁舎からみた引田城跡(城山)と町並み=東かがわ市教育委員会提供

東かがわ市役所引田庁舎からみた引田城跡(城山)と町並み=東かがわ市教育委員会提供

天正10(1582)年9月に虎丸城に逃げ込み苦境に立たされた十河存保(まさやす)は、山崎の戦い(同年6月13日)で明智光秀を破り織田信長の後継者としての地位を固めつつあった羽柴秀吉に救援を求めます。そこで秀吉はその配下でそのとき淡路島にいた配下の仙石秀久(ひでひさ)を讃岐へ派遣し、秀久は屋島から上陸して高松城(喜岡城)から攻略しようとします。しかし、土佐勢の反撃を受け敗退します。

翌年の天正11年4月、長宗我部元親は、阿波の白地城より2万の大軍を率いて大窪越えで虎丸城に迫り、田面山(たづらやま)に布陣して安富盛定(もりさだ)の籠る雨滝城と分断し、十河方を包囲し始めます。土佐勢の動き対して仙石秀久は、2千の兵を率いて海路から引田浦へ上陸して港の北側にある引田城に入ります。こうして、仙石勢と、香川・香西氏らの讃岐武士も加わった土佐勢が引田の西の入り口で衝突します。

この緒戦では土佐勢が圧勝し、仙石勢はやむなく引田城へ退却します。それを追撃して土佐勢は引田に入り、翌朝より城への総攻撃を開始します。引田城はあっけなく落ち、秀久も舟で小豆島へ逃れます(引田合戦、天正11年4月21日)。この戦では秀久の家臣の森権平(ごんべい)という若者が討死を遂げています。仙石勢の敗北により、雨滝城も落ち安富盛定(もりさだ)は小豆島へ逃れます。ちなみに引田合戦のあった日、秀吉と柴田勝家が賤ヶ岳(しずがたけ)で戦っています。

引田合戦から約1年余り後の天正12年 6月11日、さしもの十河城がついに落ち、十河城へ移っていた存保は逃亡します。包囲されてから約1年10カ月後のことです。ほどなく虎丸城も落ち、ここに天正6年以来6年間を費やして讃岐全域が親元の手中に帰します。堺へ逃れた存保は秀吉の配下となり、なおも長宗我部への雪辱を目論みます。ちなみに、この年の3月から11月にかけて、秀吉と家康が小牧・長久手の戦いを行っています。その後、元親は伊予の河野氏を降して、天正13年(1585年)の春、四国平定を遂げます。しかし、それも束の間のことでした。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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