讃岐を支配した阿波の三好氏

中世の讃岐武士(20)

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2021.12.16

五岳山善通寺。再建された現在の五重塔は4代目で、明治35年に完成した

五岳山善通寺。再建された現在の五重塔は4代目で、明治35年に完成した

阿波の三好氏の始祖は甲斐源氏小笠原長清(ながきよ)といわれ、鎌倉時代に承久の乱での功績により阿波守護となり、その後、美馬・三好郡を与えられ三好姓を名乗ります。南北朝時代には宮方に組みしますが、やがて阿波細川家に下りその重臣となり、京兆(けいちょう)家(細川宗家)の家督争いに関わることにより京畿に進出していきます。

大永7年(1527)、京都・桂川の戦いで阿波・丹波の連合軍が細川高国に勝利したことにより室町幕府は機能を失い、細川晴元(はるもと)(澄元(すみもと)の子)と三好元長(もとなが)(之長(ゆきなが)の孫)が足利義維(よしつな)を擁立して阿波から堺に上陸し、そこを拠点に幕府に代わって政権を担います(堺公方)。しかし5年後、晴元が元長を策謀により敗死させてその政権も消滅します(1532年堺顕本寺(けんぽんじ)の戦い)。

天文18年(1549)、三好長慶(ながよし)(元長の子)は江口の戦い(現・大阪市東淀川区)で晴元勢を破り父の仇を討ちます。この戦いでは、長慶の3番目の弟で讃岐の十河一存(そごうかずまさ)が活躍しています。この勝利で長慶は入京を果たし、天文21年に将軍・足利義(よし)輝(てる)(よしてる)を京に迎えて、幕府の実権を握ります。事実上の三好政権の誕生です。ちなみに、織田信長が父・信秀の家督を継いだのが天文20年3月のことです。

讃岐では、天文22年、阿波の三好義賢(よしかた)(実休、長慶の1番目の弟)が、十河一存に命じて東讃の安富盛員(もりかず)・寒川政国(まさくに)と、香川・綾郡を領有する香西元政(もとまさ)を服従させます。続いて、多度・三野・豊田郡を領有する香川之景(ゆきかげ)を服従させようとしますが、応じないため、永禄元年(1558)(異説あり)、阿波・淡路の兵と十河・安富・寒川・香西など東讃岐の兵を率いて、善通寺に18,000の兵で布陣します。これに対し香川氏は天霧城に籠城しますが、結局、降伏を余儀なくされます(善通寺合戦)。三好軍が善通寺から撤収するとき、火が出、伽藍が焼失しています。香川氏降伏後、讃岐全域が三好氏の支配下に組み入れられ、讃岐武士は三好の畿内での戦いに兵役を課せられ、三好勢として出兵していくことになります。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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