美濃から来讃した生駒氏

シリーズ 中世の讃岐武士(34)

column

2023.06.01

生駒親正像(二番丁公園にあります。)

生駒親正像(二番丁公園にあります。)

四国の長宗我部(ちょうそがべ)元親(もとちか)を攻略した秀吉は、はじめ仙谷(せんごく)秀久(ひでひさ) に讃岐一国を与えますが、秀久は約1年半後に、またその後に入った尾藤(びとう)知宣(とものぶ)も半年もたたないうちに讃岐を没収されます。いずれも九州の島津攻撃の失敗の責任を問われたためです。その後、天正15年(1587)、生駒親正(ちかまさ)が秀吉から讃岐一国17万6千石を与えられます。

生駒氏は、美濃の可児(かに)郡土田村(現岐阜県可児町)の出で、親正の父・親重(ちかしげ)は織田信長の母・土田御前の兄であり、信長の室となった吉乃(きつの)は親正の妹であるといわれています。親正は信長の美濃攻めに際してその家臣となり、その後は秀吉の家臣として山崎の戦いや賤ヶ岳(しずがたけ)の戦いなどで戦功をあげ、その間に近江国高島2万3000石、播磨国赤穂6万石などを経て、讃岐一国を与えられました。

讃岐入りした親正は、まず引田城(東かがわ市)に入りますが東部に寄り過ぎなど地の利が悪く、今度は聖通寺城に移ります。しかし、そこも山城で狭小ということで新たな城を築くこととします。新しい築城地として選ばれたのが、当時箆原荘(のはらのしょう)と呼ばれていた今日の高松市街地です。高松城を縄張り(設計のこと)したのは黒田官兵衛であるといわれています。官兵衛は、「この城地は稀に見る天然の要害で、船便も良く、国主の居住地として味方千騎に価する」と絶賛したといいます。

戸次川(へつぎかわ)の戦いで討ち死にした十河(そごう)存保(まさやす)の2万石の領地は生駒氏に没収され、その遺児千松は3千石のみ与えられ親正の元で養育されますが、まもなく病死します。その突然の死は、生駒氏によって毒殺されたと噂されました。

元親それに続く秀吉の讃岐進攻、戸次川の戦いを経て、中世の讃岐武士はその命脈を絶ち、断絶するか、他国に出るか、帰農します。一部の者は新たな領主に仕官し、明治維新まで武士の身分を保ちます。また、讃岐武士が本拠地としてきた雨滝、昼寝、十河、勝賀、天霧などの城はすべて廃城となります。 [完]

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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