九州で島津軍と戦った讃岐武士

シリーズ 中世の讃岐武士(33)

column

2023.04.20

宇多津町の聖通寺にある仙石秀久の墓(宇多津町提供)

宇多津町の聖通寺にある仙石秀久の墓(宇多津町提供)

天正14年(1586)4月、豊臣秀吉の九州島津征伐が始まります。このとき、秀吉の配下に入っていた四国勢にも出陣が命じられ、仙石秀久(ひでひさ)を四国勢の目付とし、讃岐からは十河存保(まさやす)、香川民部(みんぶ)少輔(しょうゆう)そして香西・羽床・寒川・安富・三野氏ら3千人が戦陣に加わり、土佐からは長宗我部(ちょうそがべ)元親(もとちか)とその嫡子信親(のぶちか)らが加わります。四国の総勢は5千余人で、塩飽や直島の水軍が兵の運送に携わりました。

この年の12月12日、仙石秀久率いる四国勢と島津勢は戸次川(へつぎがわ)(現在の大分市内)で対陣します。攻撃をしかけてきた島津勢が退却し始めたので、秀久は勢いに乗じて一気に渡河して追撃しようとします。これに対して元親は、島津が得意とする釣(つ)り野伏(のぶ)せの罠を疑い、伏兵がいることを察して形勢をみて進撃するよう秀久に進言します。しかし、功にはやる秀久はこれを無視して渡河(とか)を決行します。このとき、存保は、かつて敵だった元親の意見に賛同するわけにも行かず、負けることを十分承知の上で仕方なく秀久に同意したといわれています。

元親の進言どおり、戸次川を越えたところに島津軍が待ち構えており、四国勢は壊滅的敗北を喫します。存保は信親(元親の長男)と共に壮烈な戦死を遂げます。この戦いにより、四国勢は1千余人が討死し、讃岐武士も存保のほか香川民部少輔、安富肥前守、羽床弥三郎らが打死して古来からの名族が多く絶えたといいます。平安時代末期から讃岐の有力国人であった讃岐藤家(ふじけ)は、羽床氏がこの戦いで絶えたことによりその長い歴史に幕を閉じます。ここに讃岐の中世は名実ともに終焉を迎えます。

島津氏は、この戦いには勝利しましたが、翌年5月には大軍をもって九州入りした秀吉に降伏します。無謀な作戦が裏目に出て大敗を招いた仙石秀久は諸将の軍を差し置いて逃げ帰り、これに激怒した秀吉から讃岐を没収され高野山へ追放されます。しかし小田原攻めで手柄をたて小諸城主に取り立てられます。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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