室町将軍を討った讃岐十河家出身の武将

中世の讃岐武士(21)

column

2022.01.20

十河一存の墓は称念寺(高松市十川東町)の北約100mのところにある

十河一存の墓は称念寺(高松市十川東町)の北約100mのところにある

戦国時代初の天下人といわれる三好長慶(ながよし)も、三好義(よし)賢(かた)(実休、1番目の弟)・十河一存(かずまさ)(3番目の弟)、嫡子の義(よし)興(おき)を相次いで失い、さらに安宅(あたぎ)冬(ふゆ)康(やす)(2番目の弟)を謀殺するという愚行を犯し、永禄7年(1564)失意のうちに亡くなります。長慶の跡を継いで三好宗家当主となったのは、一存の子で讃岐十河家出身の三好義(よし)継(つぐ)(十河重存(しげまさ))です。しかし、三好家の実権は三好三人衆(三好長逸(ながやす)・三好政(まさ)康(やす)(宗渭(そうい))・岩成友通(ともみち))と三好家執事の松永久(ひさ)秀(ひで)が握り、義継の存在は形式的なものでした。

十河氏は、今の高松市南部を根拠とする讃岐の生えぬき武士で、神内・三谷氏などが同族です。南北朝時代に細川氏に服しますが、阿波の三好元(もと)長(なが)の子・一存が十河景(かげ)滋(はる)の養子となり讃岐十河家を継いだことから、阿波三好氏の讃岐進出の橋頭(きょうとう)保(ほ)的存在となります。一存は、天文元年(1532)生まれで、天文3年生まれの織田信長とほぼ同世代です。その豪胆さから「鬼十河」と呼ばれました。

永禄8年(1565)、三好義継、三人衆、松永久通(ひさみち)(久秀の子)ら三好勢が京都二条御所を襲撃して、13代将軍・足利義(よし)輝(てる)を殺害します(永禄の変)。義輝が将軍権威の回復を図ろうとし、三好勢と対立したためです。義輝は武術に優れ(剣豪将軍)、自ら応戦したといわれています。しかし、今度は三好勢が分裂し、三人衆と松永久秀が対立して義継も久秀の方へ奔り、三人衆は久秀を討つために大和に出兵します(1567年)。東大寺大仏殿が炎上したのはこの時のことです。

 足利義輝を倒した三人衆は、阿波出身の足利義(よし)栄(ひで)(義維(よしつな)の子)を14代将軍としますが、短期間に終わります。その後、永禄11年(1568)、織田信長が足利義(よし)昭(あき)(義輝の弟)を奉じて上洛し、15代将軍とします。約15年間にわたって畿内で覇を唱えた三好政権は瓦解し、松永久秀・三好義継は信長に降伏します。しかし、三好三人衆は信長に抗戦するも惨敗し、京を追われます。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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