日米和親条約を起草した儒者

シリーズ 維新から150年(1)

column

2018.04.19

金蔵寺の新羅神社にある河田迪斎の顕彰碑

金蔵寺の新羅神社にある河田迪斎の顕彰碑

嘉永6年(1853)6月3日、米国東インド艦隊司令長官ペリーが、大統領フィルモアの親書を携えて、4隻からなる艦隊を率い浦賀に来航します。いわゆる黒船来航です。国書を渡したペリーは、来春に答えを聞きにくると言い残して浦賀を去っていきます。

翌年1月16日、約束した通り、ペリーは江戸湾内に再来航します。そして幕府は、ペリーの強い姿勢と黒船の威力に屈して、同年3月3日、米国と日米和親条約を締結し、下田と函館の2港を開港します。これにより200年以上続いた幕府の鎖国政策は崩壊します。このとき結ばれた条約の交渉時に、讃岐出身の河田迪斎(てきさい)が、応接掛である林復斎の下、翻訳や記録を担当するとともに条約文を起草しています。

迪斎は、文化2年(1805)1月15日今の善通寺市金蔵寺の生まれで、幼名を八之助といいます。伊予小松藩(今の西条市)の朱子学者・近藤篤山(とくざん)に師事し、その後、江戸で幕府直轄の教学機関である昌平坂学問所(昌平黌(しょうへいこう))に学び、そこで同郷の先輩で教官をしていた柴野栗山(りつざん)の知遇を得ます。栗山は、今の高松市牟礼町の出身で、寛政三博士の一人といわれ、松平定信に寛政異学の禁を建議したことで知られています。そして、迪斎は、幕府儒官林家の塾頭佐藤一斎の門下となり、その後を継いで塾頭を務めます。後に迪斎は一斎の娘婿となっています。

迪斎の学んだ学問は、儒学の中でも幕府公認の朱子学で、封建的で古色蒼然としたイメージですが、迪斎自身は交渉の中で復斎らに開国論を進言したとも言われており、柔軟な考えを持っていた人のようです。なお、孫の河田烈(いさお)は戦前、第二次近衛内閣の大蔵大臣を務めています。

日米和親条約締結後、ハリスが米国総領事に着任して修好通商条約の締結を要求しますが、幕府は孝明天皇の勅許を得ることができず、ここから、わが国では、幕末の動乱の歴史が始まります。

次回は、安政の大獄により吉田松陰が囚われていた時の話です。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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