桜田門外の変の場にいたという高松藩世子

シリーズ 維新から150年(4)

column

2018.07.19

松平頼聰公(公益財団法人松平公益会発行『松平頼壽傳』より転載)

松平頼聰公(公益財団法人松平公益会発行『松平頼壽傳』より転載)

安政7年(1860)3月3日、江戸城桜田門外で水戸脱藩浪士らが幕府大老井伊直弼(なおすけ)(彦根藩主)を暗殺します。この事件が勃発した原因は、直弼が大獄で尊王攘夷派を弾圧し、さらに対立する徳川斉昭(なりあき)(前水戸藩主)らに謹慎を命じたことですが、その背景には直弼ら南紀派と斉昭ら一橋派の鋭い対立がありました。南紀派は、将軍継嗣(次の将軍)に紀伊藩主・徳川慶福(よしとみ)(後の家茂(いえもち))を推し、開国やむなしという立場でした。一方、一橋派は、将軍継嗣に斉昭の子である一橋慶喜(よしのぶ)を推し開国に慎重な立場でした。

このような中、高松藩は対立する二人と深い関係にありました。井伊家は、高松松平家とともに、老中と列座する幕政の中枢である江戸城溜詰(たまりづめ)の大名であり、中でも両家は会津松平家とともに常溜(じょうだまり)という上位の家格でした。このため、高松藩主松平頼胤(よりたね)(10代)も南紀派に属していました。また賴胤の跡継ぎの頼聰(よりとし)(後の高松11代藩主)は直弼の娘・弥千代姫(やちよひめ)を正室に迎えていました。

一方、高松松平家は、水戸徳川家とも光圀以来深い関係にあり、頼聰の実父である頼恕(よりひろ)(高松9代藩主)は水戸藩出身で斉昭の兄に当たり、頼聰にとって斉昭は実の叔父に当たりました。高松藩は南紀派に属していましたが、高松松平家は井伊家、水戸徳川家とも親戚関係にあり、板挟みに合う状態でした。

高松には、桜田門外の変にまつわる興味深い話が伝わっているといいます。それは、事件当日、頼聰の乗った駕籠が舅の直弼の行列の後ろに続き、水戸浪士たちは直弼を暗殺、次いで頼聰の駕籠に襲いかかったが、頼聰の顔を見て「なんだ、万之助(頼聰の幼名)か・・・」と言ってその場を去って行った、というもの。史実ではないと思いますが、高松藩の置かれた苦しい立場を言い得て妙です。

仲睦まじい頼聰夫婦でしたが、この事件後、高松藩は弥千代姫を彦根に戻し、井伊家と絶縁します。二人が再び夫婦になったのは明治になってからのことです。

次回は、文久3年(1863)7月に屋島長崎の鼻に築かれた砲台の話です。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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