瀬戸内のボルタンスキー

香川県教育委員会 教育長 工代 祐司

column

2021.08.05

リスニングルームからの瀬戸内海

リスニングルームからの瀬戸内海

豊島にある「心臓音のアーカイブ」に向かった。家浦港から巡回バスに乗り終点の唐櫃港で下車。そこから徒歩十数分。唐櫃八幡神社の社叢を抜け、夏の太陽が眩しい王子ヶ浜にでる。その一角に漁師の家を模した焼板壁の小さな建物がある。

アーカイブには7月末現在、国内外で採音された7万5千人の心臓音が保存されている。ここに来ればそれが聞ける。リスニングルームに入り、パソコンの検索画面に名前を打ち込む。ヘッドホンから聞きたい人の心臓音が流れてくる。2009年8月に越後妻有「大地の芸術祭」の会場で録音した私の心音も聞いてみた。あの日も暑い日だったなあ。奇妙な感慨に浸る。

7月16日の朝刊でフランスの現代美術の巨匠、ボルタンスキー氏の死去を知った。この「心臓音のアーカイブ」の作者だ。十数年前、豊島での住民説明会の際、ボルタンスキー氏御本人が「アーカイブ制作の意図」や「豊島を選んだ理由」について語った。ゆっくりとしたその言葉の響きがとても印象的だった。

氏は1944年、ナチスドイツ占領下のパリで生まれた。人の「死」や「記憶」を生涯のテーマにした作家だ。国内の数少ない恒久作品のうち、豊島には「心臓音のアーカイブ」と「ささやきの森」の二作品がある。

巡礼のごとくこの地を訪れ、親しい人の心音を聞く。しかし、時とともに、ここに保管されていること自体忘れてしまうだろう。人が生きていたことの記憶とは何か。リスニングルームの窓からは、夏の明るい瀬戸内の風景が広がっている。なんだか不思議な時間が流れる。

香川県教育委員会 教育長 工代 祐司

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香川県教育委員会 教育長 工代 祐司

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