Dennoch!(デンノッホ) あきらめず前に進む

全日本空輸 高松支店 支店長 田中 五郎さん

Interview

2012.06.07

好きな言葉がある。
「Dennoch(デンノッホ)」
ドイツの社会学者・マックス・ヴェーバーの言葉。「それにもかかわらず」という意味だ。

人と接する仕事が好き

「父親が好きだった言葉なんです。会社でもプライベートでも、障害というものは必ずありますが、〈それにもかかわらず〉あきらめずにやってみる。前へ進む。何が起こっても、冷静になって考えるよう心掛けています」

ものを作るより、人と接する仕事がしたいという思いから全日空に入った。部下には「いろんな人と付き合って、いろんなことを吸収してほしいです」。高松支店長になってまもなく1年。「香川に来た人は絶対に『がっかりしない』はずなんです」と力を入れた。

「訪れた人に期待以上のお返しをすれば、そこに感動が生まれます。香川のいいところをアピールして、来てもらって、そして感動して、ぜひファンになってもらいたいですね」

激動期 アジアに関わり

入社したのは1984年。当時全日空は、ちょうど国際線に進出し始めた頃だった。入社2年目で初めての国際線・グアム便が飛んだ。4年目で施設部に配属。主な業務は「アジア地域での支店開設」だった。

どこに支店を出せばいいのか、場所を探して市内と空港の事務所を決め、賃貸借契約を締結する。現地でゼネコンや商社、大使館などと折衝して支店やカウンターの工事を発注する。そして、安全に飛行機が飛ばせるか、設備がきちんと整っているかなどをみる運輸省(当時)の就航前検査をクリアする。

「検査が秒読み段階に入ると、『間に合うのか』って緊張が走りました」

担当したのは、ソウル、バンコク、シンガポール、クアラルンプールの4支店。「ソウルとバンコクは、今も当時の支店が残っています」とうれしそうに話す。

「夜眠れないことも、夜飛び起きることもありましたけれど、とてもおもしろくて、やりがいのある仕事でした。入社4~5年目で大きな経験をさせてもらいました」

日本航空が国際線と国内幹線を運航、全日空が国内幹線とローカル線を運航する事業分野のすみ分けを定めた国の産業保護政策が終焉を迎え、航空業界が大きく変わり始めた時期。会社の土台作りに携わり、「会社と一緒に成長させてもらいました」と懐かしそうに振り返る。

「若い時にいろんなことをやらせてもらったので、今の若い人たちにもいろんな経験をさせてあげたいです」

スキーが縁で・・・

20代の頃はスキーに夢中になった。羽田空港勤務時代にも、仕事が終わると更衣室からスキー板を取り出して、職場の仲間と一緒に車に乗り込む。タイヤにチェーンを巻き、夜通し車を走らせて信州や北陸の雪山へ。そして、早朝から滑りまくった。

「仕事が休みの時はいつも行ってましたね。当時はバブル真っ只中の一大スキーブーム。修学旅行でスキーに行く学校も多く、北海道ツアーも大人気でした。今スキー人口が減っているのは商売上、残念なんですよね・・・・・・」

田中さんは職場結婚。当時のスキー仲間のひとりが奥さんだった。「スキーが縁かもしれないです」と照れくさそうにした。

田中 五郎 | たなか ごろう

略歴
1959年 3月31日 東京都生まれ
1984年 3月 成城大学法学部 卒業
1984年 4月 全日本空輸 入社
2005年 4月 名古屋支店総務課 リーダー
2009年 4月 ANAセールス 東京支店第一販売部長
2011年 7月 全日本空輸 高松支店長
      ANAセールス 高松支店長(兼務)

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