
寒暖の度合いが大きい漁場の魚はうまいという。冬野菜は霜がおいしくする。苦境の中にチャンスの種が潜んでいると失敗から悟った。
「難しいから面白い。苦しくても、前が開けると思うから仕事をする」。人より早く商機を見取る。逆風に脇を固めて人生最後の商機、「トラフグの人工孵化(ふか)から成魚まで一貫生産」に挑戦中だ。
※シラスウナギ
ウナギの稚魚。養殖ウナギ用に捕獲される。漁期は11~4月ごろ。
片目失明し商売人に

「材木屋、日用雑貨屋、八百屋、漬物屋、かまぼこ屋などいろんな店へ行きましたが、短い所は1週間もちません。勉強しとけばよかったと後悔しました」
1961年、17歳のとき神戸のウナギ屋へ勤めた。閉店後、死んだウナギでさばき方を練習した。「先輩も一人前のウナギ職人として認めてくれて、どこでもやっていけると自信がわきました」。番頭格になって仕入れを任されたが、仕事はきつかった。
「土用の暑い時に売れるから、めちゃくちゃえらい。こんな商売は一生続けられん」。3年で辞めて鳴門の実家へ帰った。先を読むのも才覚だ。
26歳で養鰻事業始める
「田舎でぶらぶらしていたら『シラスが品不足で価格が高騰している。集めてくれ』と頼まれたんです」
ウナギの生態はまだ十分解明されていない。人工孵化(ふか)が出来ないから、シラスウナギを採集して養殖する。漁業権がないので、四万十川で漁師に捕ってもらった。当時はシラスの値打ちはあまり知られていなかった。
「半年ほどの漁期で、漁師の手取りが2500万円ほどになりました。仲買役の僕も1回500万円のシラスを運んだら100万円ぐらいは手元に残りました」。取引は現金だった。うさんくさい男たちも仲買に入ってきて、まるでゴールドラッシュだった。
「いつも車に5、600万円の現金かシラスを積んでいましたから、危険だと思って手を引きました」
次の産地を求めて、屋久島や奄美群島を回った。もっと南なら捕れると直感した。「もし台湾のシラスを日本に持ち込めたら」。竹内社長に話した。
「若造で、しがない田舎のウナギ業者が日鰻連会長と一緒に、華僑の有力者や農林大臣に会って、輸入できるようお願いしたんです」。22歳だった。
60年代中ごろから、日本へシラスウナギの輸出が始まった台湾は、養鰻事業が外貨獲得の主力になっていった。
「ものを右から左へ動かすだけの商売を、いつまでも続けられない」。69年、26歳のとき、養鰻事業を始めた。
※日鰻連
日本養鰻組合連合会。
※養鰻
シラスウナギをウナギに養殖すること。
ヒラメ養殖に成功
ヒラメの人工孵化は65年、近畿大学水産研究所が種苗(しゅび)生産に成功したが、稚魚の安定生産が出来ず養殖事業として普及していなかった。
稚魚を買って20センチまで育てたところで、災難に見舞われた。「近くでやっていた堤防工事の影響で、水槽の底が抜けてヒラメが全滅したんです」
養殖場の下は砂地だった。因果関係を証明しないと補償金は出ない。訴訟の余裕もなかった。
「一匹500円もの稚魚を買う金が無いから、自分でつくろうと挑戦しました」。稚魚の餌のワムシ(動物性プランクトン)は、培養が難しかった。近畿大や水産試験場にたずねても、成功したところがほとんどなかった。
「よそは、設備は充実していましたが、水槽が狭かった。素人で資金が無いから、ウナギ養殖場跡の広い池で、自然に近い環境でやったのが良かったんです」
「福の神が応援してくれた」と表現した。安定した稚魚の供給が可能になって、ヒラメ養殖は80年代以降に急速に普及、そのシェアの2割を供給した。
※種苗生産
放流や養殖をするための、稚魚や稚貝を育てること。
ヒラメの失敗 タイ養殖に役立つ
推測だけで因果関係が証明できない。今度も訴えなかった。担当者に紳士だといわれて信頼された。これが後に役立った。
韓国産の養殖ヒラメが増えて、国内産が売れなくなったので、95年タイの稚魚に切り替えた。タイの稚魚は大量の海水を使う。導水管を、堤防と道路の地下を通して沖合まで伸ばさなくてはならない。
「海水を引き込むために、国に堤防と道路の借地権料を払っている会社は、あまりないと思います」。2度目の事故が無ければ、堤防の下に穴をあける工事は、許可が下りなかっただろう。
天然魚 増えた?

「国内向けは1.5キロぐらいで、出荷していたんですが、韓国向けの需要が増えて、3キロぐらいが多くなったんです」
タイは3キロになると産卵する。「いけすから卵が外へ出て育つんです」。天然魚が増えた理由は実証されていないが、渡邉さんは間違いないとにらんでいる。
初心忘れ失敗
「10万匹ぐらいなら自分で育てるより安いので、よそから稚魚を買うたんです。地元の卵を孵化させたらちゃんと育つけど、産卵が5月です」
成魚まで3年かかるので採算がとれない。「楽をしようと思って、初心を忘れとったんです」。タイの養殖で使っていた早期採卵設備で水温を調節すれば、産卵が速くなるかもしれないのに手間を惜しんだ。
「いまが底で、これから再出発です」。逆風に屈せず、人生最後のチャンスに挑戦する。追い風はもうすぐ吹く、と信じて。
賭け事はしない
中学生らが花札をする場所があった。紙に金額を書いて遊んでいたが、何千円か負けていた。
「ある時、先輩が賭けに入ってきて、本当のお金でないといかんというんです。恐くて、盗んだんです」
それは母親が預かった金だった。返す時に足りなかった。「預けとった叔父さんが、勘違いだったと済ませてくれたんです。おふくろには白状せんずくです」。渡邉さんの目が潤んだ。
「母が亡くなった後で兄弟に打ち明けたんです。それに懲りて賭け事をしないんです」。渡邉さんの声は、ふるえて、小さくなった。
渡邉 俊郎 | わたなべ としろう
- 1943年 徳島県鳴門市生まれ
1959年 東京の材木屋へ就職、1週間で地元に戻り、関西方面で日用雑貨、八百屋、漬物屋、かまぼこ屋 などへ勤める
1961年 神戸のウナギ小売店へ就職
1964年 鳴門にもどり独立。八幡巻とシラス仲買に従事
1969年 大内町(東かがわ市)でウナギ養殖場経営
1978年 ヒラメ養殖を始める
1979年 ヒラメの人工孵化と稚魚の安定生産に成功
全国シェアの2割を占める
1995年 タイ稚魚の生産販売を始める
2008年 フグの人工孵化から成魚まで一貫生産を始める
- 写真
渡辺
- 所在地
- 東かがわ市横内198
TEL:0879-25-4365/FAX:0879-25-3677 - 代表者
- 代表取締役 渡邉俊郎
- 設立
- 1969年
- 資本金
- 1000万円
- 確認日
- 2018.01.04
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