逆風に商機の種 先を読んで努力

渡辺 代表取締役 渡邉 俊郎さん

Interview

2012.05.17

日本の養殖漁業の先駆けとして、シラスウナギの産地開発や、ヒラメ稚魚の安定生産に成功した(株)渡辺の渡邉 俊郎さん(68)は、シラス漁で大もうけしたり、国内シェアの2割を占めた稚魚が全滅したり、波瀾万丈の道を歩んできた。

寒暖の度合いが大きい漁場の魚はうまいという。冬野菜は霜がおいしくする。苦境の中にチャンスの種が潜んでいると失敗から悟った。

「難しいから面白い。苦しくても、前が開けると思うから仕事をする」。人より早く商機を見取る。逆風に脇を固めて人生最後の商機、「トラフグの人工孵化(ふか)から成魚まで一貫生産」に挑戦中だ。

※シラスウナギ
ウナギの稚魚。養殖ウナギ用に捕獲される。漁期は11~4月ごろ。

片目失明し商売人に

子供のころ、けがで片目を失明した。「進学しても、就職試験は身体検査で不合格になる。それなら商売人や、勉強せんでええ」。中学を出て商店で働いた。

「材木屋、日用雑貨屋、八百屋、漬物屋、かまぼこ屋などいろんな店へ行きましたが、短い所は1週間もちません。勉強しとけばよかったと後悔しました」

1961年、17歳のとき神戸のウナギ屋へ勤めた。閉店後、死んだウナギでさばき方を練習した。「先輩も一人前のウナギ職人として認めてくれて、どこでもやっていけると自信がわきました」。番頭格になって仕入れを任されたが、仕事はきつかった。

「土用の暑い時に売れるから、めちゃくちゃえらい。こんな商売は一生続けられん」。3年で辞めて鳴門の実家へ帰った。先を読むのも才覚だ。

26歳で養鰻事業始める

仕入れ先が豊橋のウナギ養殖会社だったので、社長の竹内さんと面識があった。当時竹内社長は日鰻連(にちまんれん)会長だった。

「田舎でぶらぶらしていたら『シラスが品不足で価格が高騰している。集めてくれ』と頼まれたんです」

ウナギの生態はまだ十分解明されていない。人工孵化(ふか)が出来ないから、シラスウナギを採集して養殖する。漁業権がないので、四万十川で漁師に捕ってもらった。当時はシラスの値打ちはあまり知られていなかった。

「半年ほどの漁期で、漁師の手取りが2500万円ほどになりました。仲買役の僕も1回500万円のシラスを運んだら100万円ぐらいは手元に残りました」。取引は現金だった。うさんくさい男たちも仲買に入ってきて、まるでゴールドラッシュだった。 

「いつも車に5、600万円の現金かシラスを積んでいましたから、危険だと思って手を引きました」

次の産地を求めて、屋久島や奄美群島を回った。もっと南なら捕れると直感した。「もし台湾のシラスを日本に持ち込めたら」。竹内社長に話した。

「若造で、しがない田舎のウナギ業者が日鰻連会長と一緒に、華僑の有力者や農林大臣に会って、輸入できるようお願いしたんです」。22歳だった。

60年代中ごろから、日本へシラスウナギの輸出が始まった台湾は、養鰻事業が外貨獲得の主力になっていった。  

「ものを右から左へ動かすだけの商売を、いつまでも続けられない」。69年、26歳のとき、養鰻事業を始めた。

※日鰻連
日本養鰻組合連合会。

※養鰻
シラスウナギをウナギに養殖すること。

ヒラメ養殖に成功

自分が道筋をつけた台湾や中国から、活ウナギの輸入が急増した。そこで78年、ヒラメ養殖へ切り替えた。

ヒラメの人工孵化は65年、近畿大学水産研究所が種苗(しゅび)生産に成功したが、稚魚の安定生産が出来ず養殖事業として普及していなかった。

稚魚を買って20センチまで育てたところで、災難に見舞われた。「近くでやっていた堤防工事の影響で、水槽の底が抜けてヒラメが全滅したんです」

養殖場の下は砂地だった。因果関係を証明しないと補償金は出ない。訴訟の余裕もなかった。

「一匹500円もの稚魚を買う金が無いから、自分でつくろうと挑戦しました」。稚魚の餌のワムシ(動物性プランクトン)は、培養が難しかった。近畿大や水産試験場にたずねても、成功したところがほとんどなかった。 

「よそは、設備は充実していましたが、水槽が狭かった。素人で資金が無いから、ウナギ養殖場跡の広い池で、自然に近い環境でやったのが良かったんです」

「福の神が応援してくれた」と表現した。安定した稚魚の供給が可能になって、ヒラメ養殖は80年代以降に急速に普及、そのシェアの2割を供給した。

※種苗生産
放流や養殖をするための、稚魚や稚貝を育てること。

ヒラメの失敗 タイ養殖に役立つ

89年、また事故が起きた。ヒラメが卵を産まなくなって稚魚の生産がストップした。今度は県の埋め立て工事の振動の影響だった。

推測だけで因果関係が証明できない。今度も訴えなかった。担当者に紳士だといわれて信頼された。これが後に役立った。

韓国産の養殖ヒラメが増えて、国内産が売れなくなったので、95年タイの稚魚に切り替えた。タイの稚魚は大量の海水を使う。導水管を、堤防と道路の地下を通して沖合まで伸ばさなくてはならない。

「海水を引き込むために、国に堤防と道路の借地権料を払っている会社は、あまりないと思います」。2度目の事故が無ければ、堤防の下に穴をあける工事は、許可が下りなかっただろう。

天然魚 増えた?

2008年、フグの養殖に切り替えた。天然タイが増えて養殖の市場性が弱くなったからだ。

「国内向けは1.5キロぐらいで、出荷していたんですが、韓国向けの需要が増えて、3キロぐらいが多くなったんです」

タイは3キロになると産卵する。「いけすから卵が外へ出て育つんです」。天然魚が増えた理由は実証されていないが、渡邉さんは間違いないとにらんでいる。

初心忘れ失敗

フグの養殖は難しい。相場の変動が激しいので専門業者も少ないという。取りかかって4年目だが、安定生産ができない。瀬戸内は海水の寒暖の差が大きい。他の海域で育った稚魚は環境が違うので、成長が遅く病気にもかかりやすい。

「10万匹ぐらいなら自分で育てるより安いので、よそから稚魚を買うたんです。地元の卵を孵化させたらちゃんと育つけど、産卵が5月です」

成魚まで3年かかるので採算がとれない。「楽をしようと思って、初心を忘れとったんです」。タイの養殖で使っていた早期採卵設備で水温を調節すれば、産卵が速くなるかもしれないのに手間を惜しんだ。

「いまが底で、これから再出発です」。逆風に屈せず、人生最後のチャンスに挑戦する。追い風はもうすぐ吹く、と信じて。

賭け事はしない

人生で最大の失敗は、と尋ねたら、「中学生の時に、母親の金を盗んだことや」。渡邉さんは即座に言った。

中学生らが花札をする場所があった。紙に金額を書いて遊んでいたが、何千円か負けていた。

「ある時、先輩が賭けに入ってきて、本当のお金でないといかんというんです。恐くて、盗んだんです」

それは母親が預かった金だった。返す時に足りなかった。「預けとった叔父さんが、勘違いだったと済ませてくれたんです。おふくろには白状せんずくです」。渡邉さんの目が潤んだ。  

「母が亡くなった後で兄弟に打ち明けたんです。それに懲りて賭け事をしないんです」。渡邉さんの声は、ふるえて、小さくなった。

渡邉 俊郎 | わたなべ としろう

1943年 徳島県鳴門市生まれ
1959年 東京の材木屋へ就職、1週間で地元に戻り、関西方面で日用雑貨、八百屋、漬物屋、かまぼこ屋 などへ勤める
1961年 神戸のウナギ小売店へ就職 
1964年 鳴門にもどり独立。八幡巻とシラス仲買に従事
1969年 大内町(東かがわ市)でウナギ養殖場経営
1978年 ヒラメ養殖を始める
1979年 ヒラメの人工孵化と稚魚の安定生産に成功
    全国シェアの2割を占める 
1995年 タイ稚魚の生産販売を始める
2008年 フグの人工孵化から成魚まで一貫生産を始める
写真
渡邉 俊郎 | わたなべ としろう

渡辺

所在地
東かがわ市横内198
TEL:0879-25-4365/FAX:0879-25-3677
代表者
代表取締役 渡邉俊郎
設立
1969年
資本金
1000万円
確認日
2018.01.04

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