あこがれとコンプレックス、笑顔が夢をかなえた

エヌ・ディー・シー・ジャパン 代表取締役社長 石井 浩一さん

Interview

2009.10.01

香川から全国に先進的なファッションを発信して33億円(2008年度)を売り上げる(株)エヌ・ディー・シー・ジャパンは、「小売り・卸・アウトレット」の三つの事業が相乗効果をもたらすビジネスモデルが強みだ。培ってきたノウハウを生かす新事業、ネットショップも総売り上げの10%を超える。
代表取締役社長石井浩一さん(51)は、1979年、実家の洋装店の経営が苦しくなって大学を中退、親の店を間仕切りして5坪の中古衣料のブティックを始めた。「古着だからしょうがないけど、破れてもかっこいいよ」。商品を買ってくれた友達に言われた時、新品を売ろうと決心した。
毎日の商売がつらかった。店が終わってディスコで踊った。「踊っていると仕事のつらさを忘れて、変身できました」。ディスコの人気者になった。大勢の仲間が出来た。その仲間がお客さんになってくれた。
おしゃれな人へのあこがれとコンプレックスが原点という石井さんは、ピンチの中から「夢をかなえる」方法を見つけた。

ビジネスモデルを見つけた

「店に来たお客さんが、クレジットで商品を買ったというんです」。閃いた。資金が無くても商売が出来る。カタログを作って予約を取ろう・・・。商品を売ったら信販会社が店に金を払ってくれる。お客は分割で信販会社に払えばいい。

当時ディスコがはやっていた。高松や松山、徳島、そして東京のディスコに通って仲間が大勢出来た。東京では、おしゃれのレベルがまったく違っていた。ロンドンやニューヨークから来た外人たちにあこがれた。着ているトレーナー風Tシャツのブランド名や、フランスやイタリアでどんなシャツがはやっているかを聞いた。そして彼らのダンスを必死になってまねた。

「原点はあこがれとコンプレックスです。東京のディスコで、おしゃれな人たちや、オリーブやブルータス、マガジンハウスなどのファッション雑誌の編集者たちと友達になりました」。石井さんの少年のようなあどけない笑顔が人を引き付けた。笑顔がファッションの最先端をいく人たちを魅了したのだ。

ディスコで、次にはやるものが分かった。東京の輸入代理店を回って、片っ端から次にはやる商品の写真を撮ってカタログにした。石井さんのカタログ作りは業界で注目された。「買ってくれる友達が大勢いますと言うと、『お前ならやれるだろう』と信用されて商品を扱えるようになりました。高瀬町の友達にも、高松や松山、徳島のディスコの踊り仲間にもカタログを見せたら、いきなり700万円ほどの予約が取れました」

東京のおしゃれを持ってきた

「ディスコのダンスは1カ月でスタイルが変わります。東京で流行しているダンスを、僕が高松や松山、徳島で踊ったら、仲間がまねるんです」。石井さんと仲間が踊ってディスコが盛り上がった。それでまた仲間が増えた。そんな仲間が石井さんの扱うパンツや靴をはいた。

「僕が東京で感じたあこがれとコンプレックスを、僕たちは共有したんです。僕は高松や松山、徳島で流行を作ったんです。快感でした」。ファッション誌に載るより早い石井さんの商品情報が、おしゃれな人たちをとりこにした。

コンセプトは最先端のインポートブランド

1981年、高松の常磐街に6坪の「サプライズ」をオープンした。国内ブランドの全盛期に、石井さんは海外ブランド中心のコンセプトにこだわった。「高松では斬新な店でした。大勢のディスコ仲間の口コミで評判になって、オープンの時から人が並びました」

86年、「ハローズ」(現在のデュースハーモニー)をオープンした。16坪の店で1億6000万円売り上げた。88年、隣に「ポールスミス」のフランチャイズ店を作った。

そごうデパートが瓦町駅に出来ると聞いて人の流れが変わると思った。今しかないと思って三つの店を瓦町に移動した。「いまの『ポールスミス』は107坪あります。総代理店の(現)伊藤忠商事に相談したら、3店舗と事務所を含めて当時で3億円ぐらいかかると言われました。ゼロからスタートして、ある程度の金が出来たけど、このままでは衰退しかないと家内に相談したら分かってくれました」。1億5000万円を自己資金で、残りを借り入れした。会社の売り上げは15 億円になった。

ヨーロッパから直接仕入れ

「僕が高松で初めて手掛けたブランドが、翌年ほかの店に並んで、売り上げが落ちました。輸入代理店が同じブランドをほかの店にも卸したんです」。日本で商品を仕入れる限り同じことの繰り返しだ。83年から、商品を直接買い付けるためにパリへ行き始めた。

「最初は3カ月ぐらいパリにいて、ディスコに通いました」。石井さんの笑顔は、パリのディスコに通う人たちにも人気を呼んだ。有名雑誌のファッションモデルやスタイリスト、ブティックのオーナーたちと親しくなった。「ヨーロッパの業界を調べていたので、『詳しいね』と感心されてお茶や食事に誘ってくれました」。片言の英語が通じて情報が集まった。

不況でも女性は宝石を買う

80年代後半、バブル崩壊で在庫が一気に増えた。「当時3500万円ほど在庫があって、メーカーへの未払いも3000万円ありました」。1カ月後に、社員14人のボーナス250万円の支給日が迫っていた。

「家内と金策の相談をしていたときに、指輪がピカッと光ったんです。家内は素晴らしい女性ですよ。その家内が、最大のピンチなのに、僕の友人が勤めている会社の宝石展示会で、宝石を買っていたんです」

不況でも女性は宝石を買う・・・石井さんは金策のヒントを見つけた。その場で友人に電話した。「宝石業者を紹介してもらって、宝石の販売員が一緒に営業してくれる条件で、宝石を売ることにしました。忘れもしない32歳の9月1日です」

親しいお客さんや友達をリストアップして、夜訪問した。「晩飯を食べていけ」と歓待してくれる友人に、その場では何も言えなかった。後から電話で「いまピンチだ、宝石を買ってほしい」といったら買ってくれた。1カ月間で1200万円の宝石が売れた。「手数料を250万円もらって、社員にボーナスが払えました。宝石業者にもう1回やりましょうと誘われましたが断りました。2回やれることではありません」

ピンチが転機

それでも、まだメーカーへの支払いと在庫商品が残っている。在庫を売る方法を考えた。これからオープンする店に売ればいいと思った。「メーカーさんや店の内装屋さんに探してもらったら、4店舗見つかりました。あまり経験のない人たちが店を開くというので、商売のやり方を教える条件で商品を買ってもらいました」。それでメーカーに支払うことが出来た。オープンした4軒の店の、次のシーズンの商品も石井さんが納入することになって、それが卸事業を始めるきっかけになった。

「いつもピンチがエネルギーをくれました。僕はすべてピンチが転機になっています」。今年1年間で直営店を9店舗作った。直営店は全国で14店舗になった。9店舗で9億5000万円を売り上げるアウトレット事業も、店舗を増やす方針だ。ネットショップの販売は2年目で、3億円ほど売り上げる。8月から電話で買えるモバイル事業も始めた。インターネット事業の目標売り上げは6億円を目指している。

おしゃれは不滅

「社内事業部制で仕事を社員に任せます。リスクを承知で任せるから、僕に価値のある情報が入ってきます」。81人の社員の1割が海外で仕事をしている。石井さんは社員たちの成長が楽しみだ。「息子はインターネット・モバイル事業部で仕事をしています。僕には産みの子どもと育ての子どもがいて、子どもたちの成長が楽しみです」

ブランドの価格が下がった。製造コストを安くする仕組みが確立されて、少量生産はかえって難しくなった。いい物が作れる状況ではない。情報はますます早くなって中小企業の小売事業はいっそう厳しい。
「ユニクロさんは、最先端の素材で最も安く商品を作りました。あれだけ大きくなったら購買層を広げないとやっていけないでしょう。エヌ・ディー・シー・ジャパンは、大手がやれない『特殊と少量』でやっていきます」

おしゃれはなくならない。年齢を重ねてもいい物へのあこがれは変わらない。笑顔で人を魅了する石井さんは、これからもピンチにチャンスを見つける。

時間のミスが展示会の準備時間を短縮

1990年、卸事業を始めた時、高松と大阪で最初の商品展示会を開いた。「展示会はでっかくやれ」。友達のアドバイスで大阪国際見本市会館で100坪のスペースを借りた。高松で2日間展示会をやって、終わったその日のうちに、トラックに展示商品を積み込んで大阪に入る予定だった。
商品を売りたい輸入代理店から応援に来てくれていた人たちに、展示会が終わった夜、ナイトクラブで慰労したら出発するのが遅くなって翌朝5時に大阪に着いた。
みんなでサウナで汗を流して仮眠を取って、会場へ着いたら9時になっていた。開場の10時ジャストに、大手の繊維メーカーT社が、役員をはじめ十数人でやって来た。会場はどこかと聞かれた。「とっさに目配せして『11時半からとお伝えしてなかったでしょうか』と答えたんです。T社の担当者は気がついてくれて、『時間を間違えました』と言ってくれたんです」
 石井さんは大阪の知り合いに電話で応援を頼んだり、展示会に来た招待客にも手伝ってもらったり、なんとか11時半には設営を終えた。「私のミスで1時間半待たされたT社さんは、この一件で数日かけていた展示会の設営を短縮したということです。これは本当の話です」

石井 浩一 | いしい こういち

略歴
1957年 香川県生まれ
1976年 観音寺中央高校(旧観音寺商業高校)卒業
    大阪商業大学入学
1979年 香川県三豊郡に「ブティックルーシー」を開店
1981年 高松市に「The Surprise Shop」を出店
1988年 (株)エヌ・ディー・シー・ジャパン設立
    高松市瓦町に路面店「FCショップPaul Smith
    (16坪)」を出店。
    〈初年度売り上げ1億円〉
1990年 N.D.C.JAPAN 卸売り事業部を創設。
    自社輸入商品。
1998年 東京、代官山にN.D.C.JAPAN東京オフィスを
    開設。
1999年 有限会社アウトレットサービスを設立。
2000年 大阪岸和田にOUTRET第1号店となる
    「ndc STOCK」OPEN
2007年 本格的なインターネットショップdouce
    Harmonieオープン。

株式会社エヌ・ディー・シー・ジャパン

住所
香川県高松市瓦町1-13-8
代表電話番号
087-834-0844
設立
1988年
社員数
81人
事業内容
アパレル卸・小売・製作・企画(婦人・紳士服、シューズ、アクセサリー)
沿革
1979年 三豊市高瀬町に「ブティック ルーシー
   (4.5坪)」として創業。
1981年 高松市瓦町に「The Surprise Shop(6.52坪)」を
    出店 〈初年度売上げ6000万円〉
1983年 渡仏。〈商品マーチャンダイジング研究のため〉
    この時より年4~6回渡仏を実施。
1988年 株式会社エヌ・ディー・シー・ジャパン
    “N.D.C.JAPAN”設立。
1990年 N.D.C.JAPAN 卸売り事業部を創設。
    自社輸入商品。
1996年 高松市番町に株式会社エヌ・ディー・シー・
    ジャパン本社ビル竣工。
    株式会社エヌ・ディー・シー・ジャパンより
    卸事業部を分離し、株式会社ベーネコーポレー
    ションを設立。小売・卸の分割管理を行う。
1997年 高松市瓦町に「Paul Smithビル(107坪)」を出店。
    Paul Smith・Paul Smith Collection・
    R.NEWBOLDを展開。
    〈初年度売上げ4億8000万円〉
    高松市瓦町に「Margaret Hawell(16坪)」
    「douce Harmonie(28坪)」を移転 オープン。
    高松市瓦町コトデンそごう前に「Underground
    passage(40坪)」を拡張、移転オープン。
1998年 東京、代官山にN.D.C.JAPAN東京オフィスを開設。
1999年 有限会社アウトレットサービスを設立。
2006年 インターネット事業部設立
2009年 全国各地に直営店14店舗、アウトレット9店舗を
    展開中
地図
URL
http://www.ndcjapan.jp/
確認日
2009.10.01

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