二度消滅し二度蘇った香川県

シリーズ維新から150年(19)

column

2019.10.17

明治13年の地券(土地の所有者を示すもの)。住所は現在の多度津町だが「愛媛県」の印が押されている。

明治13年の地券(土地の所有者を示すもの)。住所は現在の多度津町だが「愛媛県」の印が押されている。

香川県が初めて誕生してから1年3カ月後の明治6年2月、政府の府県広域化政策により、香川県は名東(みょうどう)県(現在の徳島県と淡路島)に編入されます。県庁は徳島に置かれ、旧香川県庁は高松出張所と改称されます。ところが、県会が開かれると、吉野川治水費をめぐり、租税負担金が多いにもかかわらず讃岐の受ける恩恵が少ないと、讃岐側議員が猛烈に反対し、3日間の激論でも解決しませんでした。政府は讃岐住民の抵抗を無視できず、2年7カ月後の明治8年9月、再び香川県の設置を認めます。

しかし、この第二次香川県も1年と続きませんでした。政府は3度目の府県統合を実施し、明治9年8月に香川県は愛媛県に編入されます。四国では名東県も高知県に編入されています。讃岐を合わせた愛媛県庁は松山に置かれ、高松はその支庁(後に出張所)となります。讃岐では以来12年余り愛媛県時代が続くことになります。

中央では、これに先立つ明治7年(1874)、板垣退助らによって民撰議院設立建白書が提出され、議会開設を求める自由民権運動が活発になっていました。讃岐でも、同8年、高松の豪商達によって民権思想や新しい文明を移入する目的で設立された新聞雑誌の展覧所博文(はくぶん)社(舎)が設立され、その後、純民社、高松立志社、丸亀立志社、翼賛社、興民(こうみん)社などの民権結社が設立されています。

明治15年(1882)、高松立志社の人々が中心となって「讃豫分離ノ檄文(さんよぶんりのげきぶん)」が発せられ、愛媛からの分県独立運動は民権運動と深くかかわって展開していきます。同21年、高松の改進党系グループや中野武営(たけなが)の熱心な活動により、政府もようやくこれをとりあげ、同年12月3日付で第三次香川県設置の勅令が公布されます。全国で最後の置県でした。念願のかなった高松市民は「有頂天なり、殆んど商売も手に就かざる有様」で、花火を打ち上げて香川県の復活を祝賀したといいます。明治23年2月には高松市に市政、丸亀・坂出・多度津・琴平・観音寺に町制、ほか176の村に村制がそれぞれしかれます。

村井 眞明

香川県中小企業団体中央会 参与(非常勤)村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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香川県中小企業団体中央会 参与(非常勤)村井 眞明さん

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