土佐武士の讃岐侵攻④(香西氏の降伏)

シリーズ 中世の讃岐武士(29)

column

2022.11.03

藤尾城跡=高松市香西本町(宇佐八幡神社)

藤尾城跡=高松市香西本町(宇佐八幡神社)

香西氏は、勝賀山南東麓の佐料城(高松市鬼無町)を平時の居城としていましたが、長宗我部の侵攻に備えて山の北東に藤尾(ふじお)城(同香西本町)を築いていました。この頃の当主は佳(よし)清(きよ)といい、盲目のため跡目をめぐる内紛が勃発し、その混乱はまだ収束しきっていませんでした。

その一族・配下は、新居(にい)資虎(すけとら)(新居城・高松市国分寺町)、植松往正(ゆきまさ)(植松城・同香西北町)、築城(つづき)清左衛門(下飯田城・同鶴市町)、飯田右衛門(飯田城・同飯田町)、飯沼(いいぬま)五郎兵衛(飯沼城・同成合町)、久利(くり)吉茂(北岡城・同西山崎町)、河辺民部(中田井(なかたい)城・同川部町)、岡田豊重(箆原(のはら)城・同錦町)、吉田玄蕃(げんば)(中ノ村城・同中野町)、宮脇弾正(松縄城・同松縄町)、佐藤孫七郎(伏石城・同伏石町)、真鍋祐主(すけぬし)(向(むかい)城・同木太町)、由良(ゆら)兼光(由良城・同由良町)、高松頼邑(よりむら)(喜岡(高松)城・同高松町)らです。

天正10(1582)年8月1日、端岡(はしおか)と衣懸(こかけ)池の間辺りで散発的な戦が始まります。大雨による戦闘中断を経て、4日に佐料(さりょう)辺りで両軍の先陣が衝突し、これを皮切りに5日、ついに土佐勢が香西氏本陣の置かれた藤尾城を目指して進撃します。伊勢の馬場(鬼無町是竹(これたけ)の神明神社辺り)、西光寺表(さいこうじおもて)(香西本町の西光寺東門辺り)、天神郭(てんじんかく)(香西南町の菅原神社の境内一帯)と戦場が移り、土佐勢が藤尾城の堀の内郭に攻め入ろうとします。まさにその時、西方の山に陣を敷いていた香川信景(のぶかげ)が矢留(やど)めと叫び両軍の間に割って入り戦闘を中止させます。信景がこうした挙に出たのは、永禄元(1558)年に天霧城が三好に攻められた際、香西氏の仲介で和議が成ったという経緯がありました。また、香西氏も香川氏と同じくかって細川京兆家(けいちょうけ)に仕えた重臣であり、三好の風下に立つことを嫌っていたのでしょう。

翌6日、和議が成り、香西氏が長宗我部の旗下に入り所領を安堵(あんど)されます。ここに元親に抵抗する主な勢力は、十河城、雨滝城、虎丸城に拠る東讃の諸将のみとなります。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
写真
歴史ライター 村井 眞明さん

歴史ライター 村井 眞明さん

記事一覧

おすすめ記事

メールマガジン登録
メールマガジン登録
ビジネス香川Facebookページ