室町幕府管領を暗殺した讃岐武士

中世の讃岐武士(18)

column

2021.10.21

京都の渡月橋と嵐山(方法の山)。桂川左岸下流より見る

京都の渡月橋と嵐山(方法の山)。桂川左岸下流より見る

応仁の乱で知られる細川勝元の時代、香西氏は、当主の元直が常に京都にあって京兆家(細川宗家)を補佐し、弟の元綱が讃岐に在住して地元を固め、それぞれ上香西、下香西と呼ばれていました。明応6年(1497)、元直の子・元長は、勝元の後を継いだ政元の助力を得て山城国下郡守護代に任ぜられ、京都嵐山の山頂に城を築き本拠とします(嵐山城)。

細川政元は、室町幕府管領に就任すると世に「半将軍」といわれるほど幕政を牛耳りますが、修験道に凝り、生涯女性を傍に寄せなかったため実子がなく、関白九条家から澄之、阿波細川家から澄元、細川野州家から高国の3人の養子を迎えます。その後、この3人が京兆家の家督をめぐって争い、足利将軍家の家督承継も絡みながら争乱が続きます(両細川の乱)。

最初に、澄之派と澄元派の対立が表面化します。澄之には香西元長ら讃岐武士が、澄元には三好之長ら阿波武士がそれぞれ後ろ盾となります。その背景には、上屋形と呼ばれる京兆家の家臣・讃岐武士と、下屋形と呼ばれる阿波細川家の家臣・阿波武士との対立がありました。永正3年(1506)、細川政元は京兆家の分国であった丹波を澄之に、摂津を澄元にそれぞれ分割継承させますが、これに反発した澄之派の元長と摂津守護代薬師寺長忠は、翌年6月、政元が湯殿で行水をしているところに刺客を差し向けて殺害し、澄之を京兆家の家督に擁立します(永正の錯乱、1507年)。この死によって頼之系統の京兆家は断絶します。

しかし、これに反撃した三好之長ら澄元派は、細川高国らの支援を得て、澄之と香西・安富・香川氏ら在京の讃岐武士を倒し、澄元を京兆家の家督に据えます。これにより、京においては、之長ら阿波武士が勢力を伸ばしていき、讃岐武士の勢力が一掃されます。讃岐が京兆家の本拠地だった時代は終焉を迎え、讃岐国内は各勢力が群雄割拠する混乱の時代となります。そして、その混乱に乗じて阿波の三好の勢力が讃岐に及んでくることになります。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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