東讃から始まった讃岐の戦国時代

中世の讃岐武士(19)

column

2021.11.18

雨滝山(山頂に雨滝城が築かれた)

雨滝山(山頂に雨滝城が築かれた)

細川政元(まさもと)の暗殺(1507年、永正の錯乱)を契機に、澄之(すみゆき)・澄元(すみもと)・高国の3人の養子の京兆(けいちょう)家(細川宗家)の家督をめぐる争いは、将軍の地位をめぐる幕府内の混乱とも絡み、熾烈を極めます。まず香西氏ら讃岐勢に擁された澄之が敗れ、次に三好氏ら阿波勢に擁された澄元と周防の大内氏に擁された高国が長期にわたって攻防を繰り返します(両細川の乱)。しかし、等持院の戦い(1520年)で勝利した高国が一旦決着を付けて京兆家当主の座を固めます。

澄之派だった京の讃岐勢は早い段階で没落し、国元の京兆家家臣団としての結束も崩壊して戦国の時代に突入していきます。その混乱はまず東讃から始まります。大永3年(1523)、寒川郡下道三郷(志度・鴨部・鶴羽)の境界争いに端に発し、雨滝(あめたき)城(さぬき市大川町富田中)の安富盛方(もりかた)が常隣(じょうれん)城(同市寒川町神前)の寒川元政(もとまさ)を攻撃します。両氏とも京兆家の家臣ですが犬猿の仲でした。と言うのも、讃岐生え抜き武士の寒川氏は、もとは大内・寒川の2郡と小豆島を領し、後に東国からやってきた安富氏は最初三木郡平木の城主でしたが、長禄年間(1457~60)に、京兆家の命により下道三郷を安富氏に割譲させられていたからです。この戦いでは、寒川元政が塩木(塩ノ木)(同市長尾町東将基)に安富盛方を追撃して破ります(塩ノ木合戦)。両氏はその後も争いを繰り返します。

さらにこの混乱に乗じて、阿波の三好氏が東讃の十河氏など植田一族と図り、讃岐へ侵攻を始めます。大永6年(1526)、阿波の三好元長(もとなが)が、十河景滋(かげはる)からの要請に応えて寒川元政を攻撃するため阿波から援軍を送り、国境の三木郡津柳(つやなぎ)(三木町奥山)に侵攻してきます。しかし元政の巧みな戦いで三好軍は敗走します(津柳合戦)。このとき、香川氏と香西氏が一宮大宮司らと図って、一宮に寒川氏支援の大軍を出兵させたため十河・三好氏連合軍は兵を引き上げます。しかし、6年後の天文元年、十河氏は再度、寒川氏を攻め、両者は大鉢山と将基山の間で戦いとなります(長尾表の合戦)。鬼十河の逸話が生まれたのはこの戦いのときです。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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