三好の畿内奪還の戦いで信長軍と対峙した讃岐武士

中世の讃岐武士(22)

column

2022.02.17

宇多津町の西光寺。境内には城郭伽藍の様式があるほか、土堀には鉄砲狭間(さま)が見られる

宇多津町の西光寺。境内には城郭伽藍の様式があるほか、土堀には鉄砲狭間(さま)が見られる

永禄11年(1568)、織田信長が足利義昭(よしあき)を奉じて入京すると、三好三人衆は京都を追われ阿波へ逃れます。この頃、阿波では三好義賢(よしかた)の跡を長治(ながはる)が継ぎ(1562年)、重臣の篠原長房(ながふさ)が補佐していました。また、讃岐は、永禄元年(1558)の天霧城・香川氏攻略以来、その全域が阿波三好氏の支配下に置かれ、東讃は十河存保(まさやす)、西讃は篠原長房によりそれぞれ統治されていました。存保は義賢の実子で、叔父・一存(かずまさ)の死去(1561年)により、讃岐の十河家を継いでいました。

元亀元年(1570)6月、織田信長が姉川の戦いで浅井長政と朝倉義景を破ります。しかし、翌月、京から阿波へ追われていた三好三人衆が、信長から畿内を奪還するため、摂津に上陸して中嶋(現大阪市福島区)に野田・福島城を築き、ここを拠点として反信長の兵を挙げます。このとき三好勢は分裂しており、三好康長(やすなが)(笑岩(しょうがん)、三好長慶の叔父)・十河存保・安宅(あたぎ)信康は反信長の三人衆側につき、三好宗家の三好義継(よしつぐ)と松永久秀(ひさひで)は信長側についていました。

戦況が信長優勢に進む中、三人衆を支援するために阿波・讃岐の援軍が篠原長房に率いられて兵庫浦に上陸します。讃岐から出陣したのは、香川・奈良・香西・安富・寒川氏ら3000の兵で、野田城に籠ります。しかし、この年の9月、信長軍の猛攻を受けて落城寸前となります。ちょうどその時、戦場の近くの石山本願寺に籠る顕如(けんにょ)が信長に対して戦端を開き、信長はやむなく包囲を解きます。本願寺と信長との戦いは、この先10年に渡って繰り広げられ(石山合戦)、この間、各地の門徒から本願寺に軍資金や兵糧が搬入されます。讃岐でも宇多津・西光寺の専念が、天正3年(1575)に青銅、俵米、大麦小麦を搬出しています。

畿内の三好勢の中で最後まで信長に抵抗を続けていた三好康長も天正3年(1575)4月に降伏し、これ以降四国の三好勢も信長に帰順していきます。ちなみに、なお、この年の5月には長篠の戦で武田勝頼が信長に敗れています。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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