秀吉軍と戦った讃岐武士

シリーズ 中世の讃岐武士(32)

column

2023.03.02

土佐の長宗我部元親は、天正12(1584)年6月から讃岐全域を支配下に置き、翌年の春には伊予の河野氏を降伏させついに四国を平定します。それと同時に、羽柴秀吉の侵攻に備え土佐勢6千を含む数万の軍勢を動員するとともに、四国4ヶ国と連絡が取れる阿波の白地城(現三好市)に本陣を置きます。

天正13 (1585) 年6月、秀吉は畿内周辺をほぼ征圧したため、弟・秀長を総大将として総勢11万余人という大軍で、四国侵攻を開始します。淡路から阿波へは秀長、備前から讃岐へは宇喜多秀家、安芸から伊予へは小早川隆景・吉川元長ら毛利勢がそれぞれ3方面から一斉に攻撃を開始します。

讃岐攻撃軍は、総大将・宇喜多秀家の下、蜂須賀正勝、黒田孝高(よしたか)、仙石秀久ら2万3千の勢力で屋島に上陸します。長宗我部に四国を追われた十河存保(まさやす)も案内役でこの攻撃軍に加わります。最初に攻撃の目標となったのが屋島南山麓にあった高松城(喜岡(きおか)城)です。このとき、城主の高松左馬助(頼邑(よりむら))をはじめ、香西氏より援軍にきていた唐渡(からと)弾正だん(じょう)、片山(かたやま)志摩(しま)以下200人余の兵は防戦に努めますが、全員城を枕に討死しました。これにより香西氏は実質的に滅亡します。この戦いは讃岐国内での最後の戦であり、讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。

秀吉の四国征討軍の圧倒的な兵力の前に元親は降伏し、阿波・伊予・讃岐の3ヶ国を没収され、土佐に追いやられます。元親の四国統一は束の間に終わります。長宗我部氏から養子を迎えていた讃岐の香川氏は、ともに土佐に退き、今の宿毛市辺りに隠棲したといわれています。

秀吉は、没収した讃岐を家臣の仙谷秀久に与えます。ただし、山田郡2万石については、讃岐攻めの功により元の領主だった十河存保の知行地とします。秀久は、奈良氏の後の聖通寺山城に入り、讃岐統治を始めます。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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