宇多津に来た室町幕府将軍

中世の讃岐武士(16)

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2021.08.19

宇多津町の圓通寺にある「細川頼之公館跡」の碑

宇多津町の圓通寺にある「細川頼之公館跡」の碑

康応元年(1389)3月、足利義満(三代将軍)は宮島厳島神社へ参詣の旅をします。この参詣は山陽道の武将らに将軍の威厳を示すとともに九州の南朝勢力を牽制し、また康暦(こうりゃく)の政変(1379年)により讃岐宇多津に下った細川頼之に対面するためでした。同月4日、義満は京を出発し、兵庫から船出して海路を宇多津に向かいます。6日夜半に宇多津に到着し、頼之と再会します。頼之は百余艘の船、一切の費用を準備するなど歓待に努めたといいます。その頃の宇多津の情景は「なぎさにそって海人の家々連なり、東は山の峰々海中に入り長く見える。海岸には古松の大木、むろの木など立ち並び、寺の軒処々に見える」と、今川了俊が『鹿苑院殿厳島詣記』に記しています。東の山とは聖通寺山のことです。

3月8日朝、義満一行は宇多津を離れ宮島に向かいます。少し西に進んだところで暴風に遭い佐柳島に上陸し、備後尾道(現・尾道市)・安芸高崎(現・竹原市)を経て10日厳島に着きます。参詣を終えて、さらに西へ向かい周防国に至り大内義弘に会い、さらに竈戸関(かまどのせき)(現・山口県上関町)で河野氏に引見します。そして、22日、備後鞆(とも)(現・福山市)を船出し、荘内半島先端沖を進みます。しかし、激しい追い風に遭ったため、宇多津の手前の「ただつ」(多度津)に上陸し、徒歩で渚の干潟に沿って進み、青ノ山を越えて宇多津に戻ります。2泊の後、宇多津を発ち、26日に帰京します。

これにより、頼之は宇多津に雌伏すること十余年、再び京に戻り、幕政に返り咲きます。明徳2年(1391)、頼元(頼之の弟で養子)が管領に就任し、頼之は政務を後見します。そして、明徳の乱で山名氏清を破ります。しかし、翌年(1392年)、頼之は風邪をこじらせ死去します(享年64歳)。南北朝が合体したのは、その年のことです。また金閣寺の完成はその5年後のことです。京都嵯峨野の地蔵院(竹の寺)には頼之の墓がありますが、讃岐の立善寺(りゅうぜんじ)(現・高松市香川町川東下)にも分骨したという頼之の墓があります。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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