サンポート高松(その2・開発経緯)

工代祐司

column

2026.01.01

1981(昭56)年頃の高松港周辺(高松港管理事務所提供)

1981(昭56)年頃の高松港周辺(高松港管理事務所提供)

サンポート高松の再開発事業は、1988年の瀬戸大橋開通に伴う宇高連絡船廃止後の高松の地盤沈下をどう防ぎ、香川の中枢拠点をいかに確保するかという、3大プロジェクト(瀬戸大橋、高速道路、空港)後の最重要プロジェクトでした。

道筋をつけたのは故平井城一元知事。平井さんは県の企画部長時代に瀬戸大橋の架橋に精魂を傾けました。東京の本州四国連絡橋公団との交渉に日参し、「平井さん、こちらに出勤簿おいときますか」と公団職員に言わしめたという逸話も残っています。

だからこそ平井さんは瀬戸大橋完成に伴う高松の衰退は断じて避けねばならないとの強い思いをお持ちでした。1986年9月知事就任後、直ちに高松港頭地区の再開発に向けての調査に着手したのです。

再開発地区は高松駅周辺と北側の埋立地を含む42ヘクタール。都市計画と港湾計画を融合した開発は、手法や土地の権利調整、JRの貨物ヤードの移転、事業主体など課題は山積でした。

1989年には県と高松市の役割分担や各省庁との調整も進み、最大の焦点は広大な貨物ヤードの移転先でした。候補地調整は数年を要し、知事自ら地元説明に赴くこともあったようです。1992年鬼無・香西地区への移転のめどが立った6月8日、平井知事の安堵の姿を秘書であった私は今も忘れられません。  

1993年には「高松港頭地区」の愛称を募集。5035点に及ぶ応募の中から「サンポート高松」が選定されたのです。

しかし、バブル経済の崩壊後、事業遂行への不安が高まりました。1997年経済界の代表からなる「サンポート高松推進懇談会」を設置し、今後の方向性を議論した結果、「二段階開発方式」を決定しました。まず高松駅周辺地区を重点的に整備。北側三街区は当面は凍結というものです。

この決定は極めて適切だったと思います。その後、2001年新高松駅、ホテルクレメント高松の開業、2004年高松シンボルタワーの完成、2006年国の合同庁舎北館、2017年南館竣工。そして2025年2月には、北側街区に香川県立アリーナが開館しました。

サンポート高松という画竜に県立アリーナという点睛が施され、瀬戸内を代表する港湾都市は世界に向けて、その輝きを一段と増したのです。
(文 工代祐司)

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