吉田松陰が感じ入った勤王親子

シリーズ 維新から150年(2)

column

2018.05.17

高松市の峰山墓地にある長谷川宗衛門の墓

高松市の峰山墓地にある長谷川宗衛門の墓

安政の大獄は、安政5年(1858)9月から翌年にかけて、徳川幕府大老・井伊直弼(なおすけ)が尊王攘夷派に対して行った大弾圧ですが、このとき吉田松陰が江戸伝馬町の獄に捕らわれの身となったことはよく知られています。その同じ獄に高松藩士の長谷川宗右衛門とその息子の速水(はやみ)も繋がれていました。

この大獄が起きた直接の原因は、朝廷の勅許を得ずに日米修好通商条約を調印した幕府に孝明天皇が激怒し、水戸藩に攘夷の密勅を下したことによります。その背景には、開国問題と将軍継嗣をめぐる直弼と徳川斉昭(なりあき 水戸九代藩主)の鋭い対立がありました。斉昭に近かった高松藩尊王派の長谷川親子もそれに連座したというわけです。

幕末の尊王思想は、外敵を撃つという攘夷思想と結びつき、尊王攘夷運動として展開されていきます。その形成に大きな影響を与えたのは、水戸藩の徳川光圀(水戸黄門)から始まる水戸学であるといわれています。高松藩は、二代藩主が光圀の息子・頼常(よりつね)で(初代頼重(よりしげ)は光圀の実兄)、その後も、九代藩主に水戸藩から頼恕(よりひろ)を迎えています。頼恕の実弟が斉昭です。このような関係から高松藩にも尊王派が形成され、宗右衛門は江戸詰めの近侍として頼恕に仕えたことから、斉昭の影響を強く受け、甥の松崎渋右衛門らと尊王派となっていました。

長谷川親子と松陰は言葉を交わしてはいませんが、牢獄ですれ違った宗右衛門が独り言のようにして言った「寧(むし)ろ玉(ぎょく)となりて砕(くだ)くるとも、瓦となりて全(まった)かるなかれ」という言葉に松陰はいたく感じ入り、留魂録(りゅうこんろく)という遺書の中でそのことを記し、弟子たちに伝えています。

宗右衛門、速水の親子は、その後、ともに高松に帰され、鶴屋の獄に移されます。速水は獄中で吐血して亡くなりますが、宗右衛門は許されて出獄します。しかし、再び牢に入れられ、自由の身になったのは明治になってからです。

次回は、安政7年(万延元年、1860)の時の咸臨丸による太平洋横断の話です。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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