四国の暮らしを支える道路網を
未来に継承したい

西日本高速道路 執行役員・四国支社長 喜久里 真二さん

Interview

2026.01.01

佐世保市に生まれ育った少年時代。北への憧れから北海道大学に進学し、経済思想史のゼミに所属して経済学の基礎に触れ、「将来は人や地域の役に立つ実務にかかわりたい」と考えるようになった。就職先に日本道路公団(当時)を選んだのは、モータリゼーションが進み自動車産業が活気づいていたことも背景にある。

以来30年以上を経た今、四国支社長として「1963年に日本で初めて名神高速道路が、四国では85年に三島川之江~土居間が開通しました。私が生まれる前から使われ続けている重要なインフラを、未来に引き継いでいきたい」と意気込む。

民営化、コロナ禍… 激動の中で築いたキャリア

本社の資金課からスタートし、民営化を経て現在の四国支社長まで、東京・横浜・名古屋・大阪・神戸・広島と各地で仕事を経験。「キャリアの転機は3つありました」と振り返る一つ目は、2005年の道路公団民営化だ。「1991年に入社した時は、国鉄が87年に分割民営化したように、道路公団が民営化するとは思いもよらなかった」

しかしその動きは現実となり、2001年に小泉内閣が発足して道路公団民営化に向けた動きが進む中、本社人事課係長だった喜久里さんも、精一杯上司のサポートに当たった。

民営化後は本社人事部で調査役を務めたのち、13年に第二神明道路事務所長となった。同事務所は喜久里さんにとって、道路公団に入って間もない頃に2年ほど現場を担当した古巣。翌14年の冬には十数年ぶりの大雪で大規模な通行止めが発生し、対応に追われた。「事務所だけでなく関係会社も含めての総力戦でした。除雪車を大阪から借りて、やっと通行止めを解除して…。雪に限らず雨や事故の時も、それまで1台も走っていなかったところに車の流れが戻っていくのを見ると、やりがいを感じます」

17年、西日本高速道路サービス・ホールディングスに出向。SA・PA の運営を担うグループ会社の店舗改善業務を担当していたが、やがてコロナ禍が始まった。エッセンシャルワーカーを支える道路網はそれなりに動いていたものの、個人旅行やバスツアーは激減し、SA・PAにとっては大打撃に。そんな中で喜久里さんは経営体質の改善を掲げ、社員と力を合わせて1店1店の原価・人件費・収支を見直し、1円レベルの利益をコツコツ積み上げて黒字を達成した。「未経験の業務でしたが、世の中のあらゆる企業が未知に直面していた時期。やれることを徹底するしかないと挑みました」

ソフト・ハード両面で 四国の高速道路を守る

21年から本社事業開発部長としてSA・PAの建て替えや改良、社宅跡地の開発に携わり、25年に四国支社長に就任。災害リスクを踏まえた耐震補強や4車線化、スマートICの整備、安全対策などのハード面の充実とともに、ドライバーの安全意識向上などの啓発も重視していく構えだ。

座右の銘は「基本の徹底」。さまざまなエラーやトラブルは、原因を突き詰めると当たり前のことができていないケースが多いと指摘し、「問題の本質を見極め、基本を徹底するよう、部下にも伝えています」。

単身赴任者が多い中、一家で高松へ転居し、香川の暮らしを楽しむ日々。「四国のダイナミックかつ繊細な自然は、北海道の雄大さとも違う魅力にあふれています。香川の人たちは温和で優しく、さぬきうどんもまったく食べ飽きません」と笑顔を見せた。
趣味は音楽鑑賞。30年近く使い続けるホーン型スピーカーのリアルな音がお気に入り

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戸塚 愛野

喜久里 真二 | きくざと しんじ

略歴
1968年 長崎県生まれ
1991年 北海道大学 卒業
    日本道路公団 採用
2005年 西日本高速道路 継承
2009年 同 人事部人事室 調査役
2013年 同 関西支社 第二神明道路事務所 所長
2017年 西日本高速道路サービス・ホールディングス 出向
2021年 西日本高速道路 本社事業開発本部 事業開発部長
2025年 同 執行役員 四国支社長

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