高杉晋作を匿った勤王の博徒親分

シリーズ 維新から150年(9)

column

2018.12.20

呑象楼

呑象楼

元治元年(1864)7月の禁門の変により、長州藩は朝敵として幕府から征討されることになります(第一次長州征討)。また、英仏蘭米の四国連合艦隊に下関砲台を占拠されます。このような情勢下、長州藩内では幕府に恭順する俗論派が台頭します。しかし、高杉晋作が下関の功山寺で挙兵し、俗論派を排斥して翌年の慶応元年(1865)2月に尊王倒幕派が長州藩政を再び握ります。

しかし、この年の4月、晋作は下関の開港を推し進めようとしたことにより、長州藩支藩の長府藩士と攘夷主義者から命を狙われます。この難を避けるため、晋作は、いったん大阪へ逃れ、そこから道後温泉へ入り、多度津を経て琴平の日柳燕石(くさなぎえんせき)を頼ります。愛人の「おうの」を連れての逃避行でした。司馬遼太郎は、小説「世に棲む日日」の中でこの物語を書いています。

豪農の跡取り息子だった燕石は、学問にも通じていましたが、遊郭で酒と博奕に耽る自由奔放な生活を始め、持って生まれた度胸と金ばなれの良さから親分と立てられるようになりました。しかし、35歳の頃勤皇を志すようになったといいます。晋作は燕石のことを、「博徒の頭、子分千人ばかりもこれ有り」、「実に関西の一大侠客」と記しています。

燕石が自分の居宅に付けた「呑象楼(どんぞうろう)」という名は、盃に映った象頭山を飲み干すという意味で、豪快な彼の意気を感じることができます。長州の桂小五郎(後の木戸孝允)もここを訪れ、燕石は援助を惜しまなかったといわれています。

燕石は晋作を匿った罪で高松鶴屋の獄に丸3年つながれ、明治維新後出獄すると、長州で尼となった「おうの」に会い、病で倒れた晋作を偲んで、「故人は鬼となり、美人は尼となる、浮世は変遷、真に悲しむべし」という詩を残しています。その後、維新政府軍に属し、奥羽越列藩同盟軍との戦いに日誌方(記録係)として従軍します。しかし、明治元年(1868)8月25日、越後の柏崎の陣中で52歳で病没します。

次回(1月17日号)は、慶応3年(1867)4月の海援隊いろは丸沈没の話です

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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