いま勝つことより、大事なもの! ~野球人生、土壇場の逆転ゲーム~

英明高等学校教諭・野球部監督 香川 智彦さん

Interview

2011.10.20

野球場を作ってもらった。選手補強の道筋もつけた。スパルタ練習で鍛えた。だが勝てなかった。その寒川高校は、監督をやめた15年後の2009年、甲子園出場を果たした。

悔しかった。その後も不運が続いた。負けたらクビの社会人野球の監督もした。監督だけで雇われ、放課後の練習時間まで他の仕事をした。警備員、鉄筋工、人材派遣の営業もやった。野球をあきらめ、瓦職人にもなった。2人の子供を抱え途方にくれた時期もあった。

英明高等学校の野球部監督 香川智彦さん(54)は、05年、商業科教諭で採用されて、01年まで女子校(明善高等学校)だった英明の野球部を任された。香川さんは、去年、創設5年目という異例のスピードで、そして今年も、2年連続でチームを夏の甲子園へ導いた。

「相手の力が勝っていても、苦労の経験では向こうの監督に負けるわけがない。そう自分に言い聞かせて対戦するんです」

負け続けた悔しさで勝負する香川さん。土壇場の逆転ゲームはドラマチックだ。

いま勝つことより・・・

私立高は、野球部に力をいれて、甲子園を目指すところが多いという。知名度が上がり、経済効果が期待できるからだ。だが、英明高校は違った。

野球部を創設したとき、新聞に「尽誠学園、香川西高、寒川高に続く、甲子園を狙えるチーム」という記事が載った。しかし実情は違っていた。真部卓一校長から、「野球を強くするためではない、商業科教諭としてしっかりやってくれ。そのうえで野球部も指導してもらいたい」と言われた。

甲子園に行くための請負監督として、勝てと言われ続けてきた香川さんは戸惑った。そして理解した。「いま勝つことよりもっと大事なものが高校野球にはある」と真部校長は伝えたのだ。

香川さんが監督になる前年の秋、英明高校に野球同好会が発足した。選手は希望者の中から、野球の力量より生活態度を重視して選ばれた。

野球が上手でも、授業をおろそかにする生徒が、とかく多いためだ。野球は学校教育の一環。これが出発点だ。

「いま勝つことよりもっと大事なもの、それは社会に出て人生というゲームに対戦するための勉強です。彼らは授業で学ぶことの意味に、まだ気付いていません」

野球が出来なくなったときの苦労を、野球を目指す生徒たちに味わわせたくない・・・香川さんの、強烈な思いだ。

近道と遠回り

チームを強くする近道は、県外から野球のうまい選手をスカウトすることだ。今年5月、高野連が、県外枠の特待生を5人までと決めたが、英明高校は創部から5人に決めている。

地元選手中心のチームは、甲子園は遠いと思われがちだが、創部3年目で成果が出た。秋の大会ベスト4、夏の大会は甲子園に出場した尽誠学園に、延長15回まで互角に戦った。

「相手の主力は、県外から集めたプロや社会人野球を目指す硬式クラブチームの選手たちです。こちらは地元中学の、軟式の選手たちです」

授業態度を重視して、野球が上手いだけではレギュラーにしなかった。「辞めていく子もいました。勉強が大事だとわかって初めてレギュラーになれるから、本当に強いチームが出来るんです」

授業をおろそかにする部員は練習試合に連れて行かない。試合に出られないとうまくなれない・・・チームの約束事が、創部から、たった6年で伝統になった。

バッティングセンター

ゼロからのスタートだった。「初めて国分寺のグラウンドを見たときびっくりしました。横長の地形で、内野がやっとの広さです」

香川さんは練習方法の発想を変えた。「ここはバッティングセンターにしよう。外野と内野の連携プレーは、練習試合で学ばせよう」

最新式のピッチングマシン8台を据えた。週2日、実戦のために球場を借りた。常識では考えられない練習方法で、「実戦に強い」英明野球が一歩を踏み出した。

週2日はマシンでガンガン打たせた。週2日と夏休みなどの長期の休みは、練習試合で守備と走塁を鍛えた。

「一日2試合にレギュラーは出ずっぱりで、打席数と投球数が他校より何割も多いし、実戦に強い守備が身につきます」

チームをレギュラーと裏方にはっきり分けた。裏方は練習試合に出ない。「甲子園でも、18人のうち控え選手は1人か2人で、あとの8人は裏方です」

不利な条件を克服する、徹底した合理主義を貫き通した。

野球があったから頑張れた

1980年、母校の専修大学の野球部コーチを。81年から13年間、寒川高校で教員と野球部の監督。94年、社会人野球の企業に入社、2年後、采配に口を出す社長と衝突して会社を辞めた。2人の子供を抱え、野球をあきらめて有友スレート(株)に瓦職人として勤めた。

「1年余り野球を離れていましたが、丸亀城西の福崎校長の要請で、低迷していた野球部の監督になりました。別の仕事をやりながら午後3時から指導しました」

生活は苦しかった。人材派遣会社の営業(西川興業)や、鉄筋工(中富工業)で働いた。97年夏、丸亀城西は、香川さんの采配で28年ぶりに甲子園へ出場した。98年、観音寺中央高に移った。

「恩師の橋野純先生が監督をしていて呼んでくれたんです。しばらく先生と一緒でしたが、05年、私に後を譲って、丸亀城西の監督として赴任されました」

橋野監督は初出場の選抜大会で優勝させたが、後を継いだ香川さんは、優勝候補といわれながら2年続けて負けた。学校では代用教員や時間講師で処遇されたが、生活は楽にならなかった。

「7年のうち3年間は、息子の純平と選手と監督の関係でした。息子の卒業と同時に、負けた責任を取って辞めました」

橋野先生の後を追って再び丸亀城西に戻った後、英明高校から誘いが来た。

※橋野 純
現 丸亀城西総監督、64才。甲子園に春夏通算10度出場し、95年の選抜大会で、初出場の観音寺中央高を優勝させた。

信頼と覚悟

香川さんは今年、甲子園の2回戦で、4番打者にバントをさせなかった。スクイズさせたら勝てたかもしれない、と言う人もいる。

「信頼しているから、打たせたということです。打てなかったから負けただけです。任せた選手の失敗を受け入れる覚悟がないと、監督は務まりません」

ゲームを決める土壇場の、自分とのギリギリの闘いだ。「勝ちたいために信念を変えたら、その勝負に勝っても選手の信頼を失います。次の勝利も失います。信頼と覚悟は選手に待ち構えている、次の人生というゲームへのエールです」

監督の信頼が選手を奮い立たせる。香川さんにとって、監督と選手の信頼関係が、すべてなのだ。

「負けて監督をやめたときも、野球だけでは生活できず、途方にくれたときも、野球をあきらめたときも、信頼、人とのつながり、があったから頑張れたんだと思います」

香川さんのドラマチックな土壇場の逆転ゲームは、まだ延長戦が期待できそうだ。

寛厳自在(かんげん じざい)

香川さんの監督人生は寒川高校から始まった。13年間スパルタで指導した。練習は夜11時ごろまでやって、選手を追いつめたときもあった。

「その時期の経験で、スパルタでは能力が伸びない、勝てないことが分かったんです。厳しく、そしてほめること。寛厳自在が大事だと分かりました」

英明高校の練習時間は毎日3時間。午後4時から7時まで。部員は8時には帰宅している。

今年の夏のチームに、寒川高校時代の教え子の子供が2人いる。ピッチャーの松本竜也君とサードの田中 玲君だ。

「英明高校の監督になった1年目から毎年2、3人いるんです。野球は寒川のほうが強いのに、僕に預けてくれるんです。不思議な縁ですね」

30年後の今、スパルタから寛厳自在に変わった香川さんの元で、寒川時代の教え子の子供たちが英明高校で花開いている。

香川 智彦 | かがわ ともひこ

1957年 多度津町生まれ
1976年 丸亀商業高等学校(現 丸亀城西)卒業
1980年 専修大学卒業 同校野球部コーチ
1981年 藤井学園寒川高等学校教諭・野球部監督
     ~94年
1994年 (株)阿部企業 社会人野球部監督
1996年 有友スレート(株) 勤務 
1997年 丸亀城西高等学校野球部監督
    (西川興業人材派遣会社、中富工業鉄筋工などで 野球部監督と兼務)
     ~98年
1998年 観音寺中央高等学校野球部監督
     ~2005年
2005年 英明高等学校教諭・野球部監督
現在に至る
写真
香川 智彦 | かがわ ともひこ

記事一覧

おすすめ記事

メールマガジン登録
メールマガジン登録
ビジネス香川Facebookページ