悔しかった。その後も不運が続いた。負けたらクビの社会人野球の監督もした。監督だけで雇われ、放課後の練習時間まで他の仕事をした。警備員、鉄筋工、人材派遣の営業もやった。野球をあきらめ、瓦職人にもなった。2人の子供を抱え途方にくれた時期もあった。
英明高等学校の野球部監督 香川智彦さん(54)は、05年、商業科教諭で採用されて、01年まで女子校(明善高等学校)だった英明の野球部を任された。香川さんは、去年、創設5年目という異例のスピードで、そして今年も、2年連続でチームを夏の甲子園へ導いた。
「相手の力が勝っていても、苦労の経験では向こうの監督に負けるわけがない。そう自分に言い聞かせて対戦するんです」
負け続けた悔しさで勝負する香川さん。土壇場の逆転ゲームはドラマチックだ。
いま勝つことより・・・
野球部を創設したとき、新聞に「尽誠学園、香川西高、寒川高に続く、甲子園を狙えるチーム」という記事が載った。しかし実情は違っていた。真部卓一校長から、「野球を強くするためではない、商業科教諭としてしっかりやってくれ。そのうえで野球部も指導してもらいたい」と言われた。
甲子園に行くための請負監督として、勝てと言われ続けてきた香川さんは戸惑った。そして理解した。「いま勝つことよりもっと大事なものが高校野球にはある」と真部校長は伝えたのだ。
香川さんが監督になる前年の秋、英明高校に野球同好会が発足した。選手は希望者の中から、野球の力量より生活態度を重視して選ばれた。
野球が上手でも、授業をおろそかにする生徒が、とかく多いためだ。野球は学校教育の一環。これが出発点だ。
「いま勝つことよりもっと大事なもの、それは社会に出て人生というゲームに対戦するための勉強です。彼らは授業で学ぶことの意味に、まだ気付いていません」
野球が出来なくなったときの苦労を、野球を目指す生徒たちに味わわせたくない・・・香川さんの、強烈な思いだ。
近道と遠回り
地元選手中心のチームは、甲子園は遠いと思われがちだが、創部3年目で成果が出た。秋の大会ベスト4、夏の大会は甲子園に出場した尽誠学園に、延長15回まで互角に戦った。
「相手の主力は、県外から集めたプロや社会人野球を目指す硬式クラブチームの選手たちです。こちらは地元中学の、軟式の選手たちです」
授業態度を重視して、野球が上手いだけではレギュラーにしなかった。「辞めていく子もいました。勉強が大事だとわかって初めてレギュラーになれるから、本当に強いチームが出来るんです」
授業をおろそかにする部員は練習試合に連れて行かない。試合に出られないとうまくなれない・・・チームの約束事が、創部から、たった6年で伝統になった。
バッティングセンター
香川さんは練習方法の発想を変えた。「ここはバッティングセンターにしよう。外野と内野の連携プレーは、練習試合で学ばせよう」
最新式のピッチングマシン8台を据えた。週2日、実戦のために球場を借りた。常識では考えられない練習方法で、「実戦に強い」英明野球が一歩を踏み出した。
週2日はマシンでガンガン打たせた。週2日と夏休みなどの長期の休みは、練習試合で守備と走塁を鍛えた。
「一日2試合にレギュラーは出ずっぱりで、打席数と投球数が他校より何割も多いし、実戦に強い守備が身につきます」
チームをレギュラーと裏方にはっきり分けた。裏方は練習試合に出ない。「甲子園でも、18人のうち控え選手は1人か2人で、あとの8人は裏方です」
不利な条件を克服する、徹底した合理主義を貫き通した。
野球があったから頑張れた
「1年余り野球を離れていましたが、丸亀城西の福崎校長の要請で、低迷していた野球部の監督になりました。別の仕事をやりながら午後3時から指導しました」
生活は苦しかった。人材派遣会社の営業(西川興業)や、鉄筋工(中富工業)で働いた。97年夏、丸亀城西は、香川さんの采配で28年ぶりに甲子園へ出場した。98年、観音寺中央高に移った。
「恩師の橋野純先生が監督をしていて呼んでくれたんです。しばらく先生と一緒でしたが、05年、私に後を譲って、丸亀城西の監督として赴任されました」
橋野監督は初出場の選抜大会で優勝させたが、後を継いだ香川さんは、優勝候補といわれながら2年続けて負けた。学校では代用教員や時間講師で処遇されたが、生活は楽にならなかった。
「7年のうち3年間は、息子の純平と選手と監督の関係でした。息子の卒業と同時に、負けた責任を取って辞めました」
橋野先生の後を追って再び丸亀城西に戻った後、英明高校から誘いが来た。
※橋野 純
現 丸亀城西総監督、64才。甲子園に春夏通算10度出場し、95年の選抜大会で、初出場の観音寺中央高を優勝させた。
信頼と覚悟
「信頼しているから、打たせたということです。打てなかったから負けただけです。任せた選手の失敗を受け入れる覚悟がないと、監督は務まりません」
ゲームを決める土壇場の、自分とのギリギリの闘いだ。「勝ちたいために信念を変えたら、その勝負に勝っても選手の信頼を失います。次の勝利も失います。信頼と覚悟は選手に待ち構えている、次の人生というゲームへのエールです」
監督の信頼が選手を奮い立たせる。香川さんにとって、監督と選手の信頼関係が、すべてなのだ。
「負けて監督をやめたときも、野球だけでは生活できず、途方にくれたときも、野球をあきらめたときも、信頼、人とのつながり、があったから頑張れたんだと思います」
香川さんのドラマチックな土壇場の逆転ゲームは、まだ延長戦が期待できそうだ。
寛厳自在(かんげん じざい)
「その時期の経験で、スパルタでは能力が伸びない、勝てないことが分かったんです。厳しく、そしてほめること。寛厳自在が大事だと分かりました」
英明高校の練習時間は毎日3時間。午後4時から7時まで。部員は8時には帰宅している。
今年の夏のチームに、寒川高校時代の教え子の子供が2人いる。ピッチャーの松本竜也君とサードの田中 玲君だ。
「英明高校の監督になった1年目から毎年2、3人いるんです。野球は寒川のほうが強いのに、僕に預けてくれるんです。不思議な縁ですね」
30年後の今、スパルタから寛厳自在に変わった香川さんの元で、寒川時代の教え子の子供たちが英明高校で花開いている。
香川 智彦 | かがわ ともひこ
- 1957年 多度津町生まれ
1976年 丸亀商業高等学校(現 丸亀城西)卒業
1980年 専修大学卒業 同校野球部コーチ
1981年 藤井学園寒川高等学校教諭・野球部監督
~94年
1994年 (株)阿部企業 社会人野球部監督
1996年 有友スレート(株) 勤務
1997年 丸亀城西高等学校野球部監督
(西川興業人材派遣会社、中富工業鉄筋工などで 野球部監督と兼務)
~98年
1998年 観音寺中央高等学校野球部監督
~2005年
2005年 英明高等学校教諭・野球部監督
現在に至る
- 写真
おすすめ記事
-
2021.07.15
新天地で育む “照らし合い”の精神
徳島文理大学 理事長 村崎 正人さん
-
2010.03.04
多様性こそ強み!香川大学改革の決め手
香川大学 学長 一井 眞比古さん
-
2018.05.17
「尽誠ブランド」で人生に寄り添う
学校法人尽誠学園 理事長 大久保 直明さん
-
2016.12.01
ものづくりの喜びと誇り 学生たちに伝えたい
四国職業能力開発大学校 校長 中山 喜萬さん
-
2016.08.18
学びの人生を貫く 若者に知識と教養を
香川県美容学校 校長 十川 聖三さん
-
2016.03.17
考えて、楽しむ 小豆島野球で甲子園へ
小豆島高校野球部 監督 杉吉 勇輝さん
-
2016.02.04
社会に役立つ “人間”を育てる
高松高等予備校 理事長 村上 良一さん
-
2010.11.04
遺伝子の底力にスイッチが入る。
喝破道場 理事長 野田 大燈さん
-
2024.06.06
成長を促す営み
香川県教育委員会 教育長 淀谷 圭三郎
-
2024.02.01
オリンピックイヤー「スポーツの持つ教育力」
香川県教育委員会 教育長 淀谷 圭三郎
-
2023.07.31
香川大学ラボ訪問「希少糖の謎を探ろう!(農学部)」参加者募集