高松に進軍してきた板垣退助

シリーズ維新から150年(13)

column

2019.04.04

土佐征討軍が本陣とした高松市扇町の真行寺

土佐征討軍が本陣とした高松市扇町の真行寺

慶応4年(1868)1月3日に起きた鳥羽・伏見の戦いを契機に、四国では高松藩・松山藩・幕領川之江の追討を命じる沙汰が朝廷から土佐藩主に下されます。土佐藩征討軍は北山越えで川之江に向かい、19日、鳥坂峠を越えて丸亀城下に入ります。土佐軍の讃岐侵攻は、長宗我部元親以来300年ぶりのことでした。このとき丸亀藩は直ちに支藩の多度津藩ともども征討軍の傘下に入ります。

翌20日、征討軍が錦旗を先頭に、丸亀・多度津の藩兵を先鋒にして丸亀から高松城に向かって進軍します。大隊司令は乾退助です。後に自由民権運動で知られ百円の肖像となった板垣退助です。丸亀藩参謀は土肥大作でした。
土肥大作(諱は実光(さねみつ))は、江戸の昌平坂学問所で学んでいたときに勤王思想を持ち、丸亀に帰った後も長州の久坂玄瑞らと親交を重ね、藩論を尊王へと導くように努めます。しかし、幕府から長州寄りと嫌疑を受けることを恐れた丸亀藩により幽閉されていましたが、高松藩が朝敵となると、丸亀藩は手のひらを返して幽閉を解き、大作を参謀としたというわけです。なお弟は新選組と戦った七助です。

三日三晩にわたる激論により恭順に決した高松藩は、門前に「降参」の文字を書いた白旗を立て、家老らが土下座して征討軍を迎えたといいます。藩主松平頼聡(よりとし)は浄願寺で謹慎しており、主のいない城でした。征討軍は直ちに門前などに「当分土佐領預かり地」の高札を立て、扇町の真行寺を本陣と定めます。その夜は600人の将兵が高松城内と真行寺に宿営したといいます。

翌21日、乾退助は丸亀に戻り、船で京都へ向かいます。また、丸亀・多度津藩兵も帰藩します。2月3日には、土佐兵も関東、東北平定の官軍に加わるため、高松から京に向かいます。藩主頼聰が帰城したのは同月20日夜です。正式に頼聰の謹慎が解かれ、官位も復元されたのは4月15日です。

その後、大作は、新政府の官吏に登用されますが、明治5年5月、新治(にいはり)県(茨城県土浦地方)の参事として赴任していたとき、36歳で謎の割腹自殺を遂げます。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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