「頭脳は無限」の教え胸に 西日本屈指の養鶏企業へ

新延孵化場 社長 新延 修さん

Interview

2013.04.18

「資源がない、国土が狭いと嘆いてはいけない。諸君の頭脳は無限に開拓できる」。どんと拳で壇上の机を叩いて大平正芳が言った。高校2年生のとき、観音寺一高の講演で、のちに首相になった大先輩が、生き方を教えてくれた。

ひよこと卵の生産販売事業を継いでほしいと請われて、新延孵化場(にいのべふかじょう)3代目社長新延修さん(66)は香川県庁を辞め、入り婿になった。

当時の四国のひよこ業界は、50社以上が競り合っていた。「研究熱心な篤農家は多いが、経営者はいない」と思った。四国ナンバーワンの孵化場にすると宣言した。設備投資を最適化して西日本屈指の養鶏企業へ成長させた。

農家の延長ではない

▲ひよこの雌雄は羽の伸び方の違いを見分けて素早く判定

▲ひよこの雌雄は羽の伸び方の違いを見分けて素早く判定

雌のひよこは120日ほどで卵を産み始めるから資本の回転は速い。「公務員よりこちらの方が面白そうだと思いました」

1935年、妻みち代さんの祖父新延嘉吉(かきち)が雌鶏と雄鶏を飼育して産ませた受精卵を下駄箱のような孵卵器(ふらんき)で孵(かえ)してひよこ屋を始めた。

2代目社長、義父の新延正葭(まさよし)の代に、産卵数が多い遺伝子を持つ種鶏、アメリカ産ハイライン鶏の販売代理店になり、四国で初めて10万個の卵を孵す設備を導入した。

70年、事業の拡大を始めた先代に請われて、23歳で婿養子になったとき、養鶏業界はまだ農家の仕事の延長だった。ひよこや卵に生産効率や市場原理を持ち込んだ。

地の利なくなり

エサの値段はアメリカの穀物相場や為替の変動で変わる。卵の値段はバイヤーとの交渉で決まる。これは他社も同じだ。競争は運賃が大きな決め手になる。

瀬戸大橋が架かるまでは地の利があった。卵の出荷先は京阪神だ。香川は高知や愛媛より京阪神に近いし、土地代が高い山陽側の広島や岡山、山陰側の島根や鳥取のライバルと競争しても、船便の運送費が安くて有利だった。

エサは工場渡しの値段で、農場までの運賃は買い手の負担だ。エサは海外から船で入るから飼料工場は港の近くにある。当時は香川県に飼料工場が多かった。

瀬戸大橋が出来てほとんど倉敷市水島地区に移った。橋の通行料はトン当たり750円かかる。エサの運賃は年間数千万円。10年だと億単位になる。地の利はなくなった。

生産量と需要うまくバランス

先代が導入した種鶏の卵を産む能力が落ちてきた。追い打ちをかけるように、婿入りした年、ハイライン社に研修に行ったとき、研修先の研究所が火事になって、ハイライン鶏の開発資料が焼失した。

ハイライン鶏の品種改良ははかどらず、他社が販売権利を持つカナダ産シェーバー鶏が登場して、ひよこの売れ行きが落ちてきた。

ハイライン鶏の復活は20年あまりかかった。『嘆くな。頭脳は無限』を支えに、人を減らし最新設備を導入して、卵の生産効率を高めて、ひよこ部門の不振を補った。

「仮に機械化で2人分の人件費、600万円が削減できると、それで鶏舎が1棟建ちます。さらに2人減らすともう1棟建てられます」。温度コントロールも給餌も衛生管理もオートメーション化して、1人で1000羽管理していたのを5万羽にした。

86年、ドイツ製オートマチック直立4段ゲージを導入した。91年に土の上で飼う鶏の卵「希(きぼう)」を、92年に炭をまぜた餌を与えて産ませた「ネッカひまわり卵」の生産を始めて、ブランド卵が年間の卵販売数2億個の15%を占めている。

99年、年間450万羽生まれてくる雌雛を細菌や鶏インフルエンザから守るため、本社孵卵工場に最新の殺菌装置、オゾン開閉システムを導入した。08年、鶏糞ペレットマシンを導入、悩みのタネだった鶏糞の大半を肥料にして販売、韓国に輸出し始めた。

畜産業の中で最も機械化が進んでいる養鶏は、装置産業的な側面がある。投資総額20億円に達した設備と生産量と市場の需要が最適にバランスした。

し烈きわめる生き残り

▲空から見た新延孵化場(航空写真は同社提供)=いずれも三豊市三野町吉津甲で ▲コンピューターで適切に管理された孵卵装置  ◆写真撮影 フォトグラファー 太田 亮

▲空から見た新延孵化場(航空写真は同社提供)=いずれも三豊市三野町吉津甲で
▲コンピューターで適切に管理された孵卵装置

◆写真撮影 フォトグラファー 太田 亮

バブル期のころ、日本におよそ1憶6000羽の採卵鶏がいた。2000万羽の養鶏を目指す鶏卵問屋に、全国農業協同組合が後ろ盾となり、大勢の同業者とひよこを納めた。ところが5年目の85年に倒産、売掛金2億円が回収できなくなった。

「予期せぬことは人生の常」……泣き言は一切言わなかった。ひよこ業者の大半は連鎖倒産したが、養鶏場を1カ所売って切り抜けた。

70年代後半は、急成長した冷凍食品会社や地元の縫製工場との求人競争に負けた。人手不足は設備導入のきっかけになった。外国人の研修生も受け入れた。

いまタイ、カンボジア、中国から来ている研修生は8人。1人息子の長男修一さんが、現地に出向いて面接して採用した。

49歳で3代目社長を継いで17年。やがて4代目になる修一さんは26歳。「まだまだ見習中です。厳しい業界ですから、学んだ知識や経験の熟成時間がたっぷり必要です」

ひよこ業界は淘汰(とうた)が進み、四国で1社、全国で20社になった。卵の生産業者は約2900社あるが、毎年1割ずつ減り続け、生き残り競争はし烈をきわめる。

新延 修 | にいのべ おさむ

1947年 三豊市豊中町(旧・三豊郡豊中町)生まれ
1969年 香川大学教育学部卒業
    香川県庁に入る(教育委員会勤務)
1970年 新延孵化場に入社
1996年 代表取締役社長 就任
写真
新延 修 | にいのべ おさむ

有限会社 新延孵化場

所在地
三豊市三野町吉津甲984
TEL:0875-72-5141
FAX:0875-73-4471
創業
1930年
資本金
5000万円
事業内容
種鶏の育成、種卵生産、採卵鶏の育成、鶏卵の生産
沿革
1930年 新延嘉吉、下駄箱式孵卵器により創業
1949年 有限会社新延孵化場を設立
    初代取締役 新延嘉吉
1958年 新延正葭が代表取締役に就任
1969年 四国地区で初めて10万卵孵卵器を導入
本社社屋完成
1998年 リバーサイド育成場が完成し、育成能力220万羽に
1999年 最新の空調システムと殺菌装置を備えた貯卵室が完成
2000年 世界初の2階建て種鶏舎が神田種鶏場に完成
2003年 神田第2農場に成鶏農場が完成
2008年 二宮育成場に鶏糞ペレットマシン導入
確認日
2018.01.04

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