京都からお迎えがきた崇徳上皇の御霊

シリーズ維新から150年(14)

column

2019.05.16

京都の白峯神宮にある「崇徳天皇欽仰之碑」

京都の白峯神宮にある「崇徳天皇欽仰之碑」

京都の今出川通堀川東入ルの飛鳥井町に「白峯神宮」という神社があります。ここは讃岐五色台の白峯寺境内に葬られた崇徳上皇の御霊(みたま)を京都へ奉還して祀(まつ)り、名称も讃岐の白峯からつけられたところです。今から約860年前、保元の乱が起こり、この乱に敗れた崇徳上皇は、讃岐へ配流となります。上皇は天皇家を恨みながら憤死したと伝えられており、その後約700年もの長い間、朝廷は主権者の地位から転落して武士に政治を牛耳られることになります。それは上皇の祟りと信じられてきました。

幕末の慶応3年(1867)1月9日、孝明天皇の跡を継いで睦仁(むつひと)親王が践祚(せんそ)して皇位を継承します。そして、この年の10月14日に大政奉還、12月9日に王政復古の大号令と時勢は目まぐるしく動き、翌年の1月3日には鳥羽・伏見の戦いを火蓋に戊辰戦争が始まります。8月23日には新政府軍が会津若松城下に侵攻します。この新政府軍と奥羽諸藩が激戦を繰り広げていた最中、明治天皇は上皇の御霊を京へお遷しするため勅使・大納言源朝臣通富(あそんみちとみ)らが讃岐に派遣します。

それは、戊申戦争に勝利し、朝廷が主権者の地位を取り戻すためには、上皇の霊と和解してその力を借りねばならないということでした。

勅使一行は8月25日に坂出港に到着し、翌日小雨が降る中、白峯山へ向かいます。この日は上皇の命日でした。御陵に至った勅使は、その前で「皇軍に刃向かう奥羽列藩同盟の賊徒をすみやかに鎮定し天下が安穏になりますようお助け下さい」と加護願う宣命(せんみょう)を読み上げます。

翌日の8月27日、明治天皇の即位式が京都で行われ、9月6日には上皇の御霊代(みたましろ)として御真影(ごしんえい)と愛用の笙(しょう)が讃岐から京都に到着し、明治天皇が参拝します。そして、9月8日に慶応から明治に改元されます。

明治の第一歩は、崇徳上皇の御霊の鎮魂から始まったということです。京都の白峯神宮は、その境内が蹴鞠の宗家の敷地だったことから、サッカー選手などの参詣が絶えないといいます。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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