源平合戦で源氏についた讃岐武士

中世の讃岐武士(2)

column

2020.02.20

平氏が拠点とした総門の跡。高松藩初代藩主・松平頼重は冠木門(かぶきもん)を建て、その古跡を表した

平氏が拠点とした総門の跡。高松藩初代藩主・松平頼重は冠木門(かぶきもん)を建て、その古跡を表した

倶利伽羅(くりから)峠の戦いで源(木曽)義仲に敗れた平氏は、寿永2年/治承7年(1183)7月に京を放棄して、安徳天皇を奉じて西国へ逃れ、大宰府で再起を図ろうとします。しかし、九州武士の抵抗に遭い東に戻り、同年10月下旬平氏の知行国である讃岐の屋島に拠ります。これに対し、源氏は、屋島を叩くため義仲が京から山陽道を下り、四国へ渡る前に水島付近(現・倉敷市玉島)で平氏との戦いとなります(水島の戦)。勝利した平氏は勢力を回復し、再入京を企て翌年(1184)の1月に福原(現・神戸市)まで戻り一ノ谷に軍勢を集結します。

この頃、新居、羽床、大野、三野ら讃岐藤原氏を中心とする讃岐武士が、平氏を見限って源氏方につき、手柄をたてようと、下津井(現・倉敷市下津井)の平氏の陣に対して、阿波の武士と一緒に十数隻の船団を組んで2千余人で攻め寄せます(下津井の戦)。ところが、平氏から反撃を受けて京へ逃げ上がります。その途上、追撃してきた平氏と淡路島で戦いとなり、讃岐武士百数十人が討死したといいます。

翌2月、平氏は一ノ谷の戦いで源義経に敗れ、再び屋島に戻ります。これに対して、同年9月、源範頼(のりより)率いる平氏追討軍が京を出発して西国へ向かおうとしていました。このとき鎌倉の源頼朝は京へ逃げてきていた讃岐武士を御家人とし、橘公業(たちばなきんなり)の配下で範頼軍に加わるよう命じます。そして、同年12月、範頼軍は児島の藤戸海峡(現・倉敷市藤戸)で平氏と戦いになり、敗れた平氏は屋島へと逃れます(藤戸の戦)。範頼軍はさらに西へ向かい、翌年(1185)2月、九州を制圧します。

その直後、義経率いる50騎が暴風雨の中を摂津渡辺津を出帆して阿波勝浦に上陸し、参陣した阿波武士の100騎を加え屋島へ向かい、2月19日、平氏を背後から奇襲します。源氏方についた讃岐武士は範頼軍には加わっていたようですが、義経と共に戦ったという記録は残念ながら無いようです。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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