宝治合戦で自害した讃岐守護

中世の讃岐武士(4)

column

2020.04.16

高松市塩江町の最明寺

高松市塩江町の最明寺

承久の乱後、鎌倉幕府は、暗殺された源実朝(さねとも)の後継者として藤原摂関家から迎えていた三寅(みとら)(当時9歳)を4代将軍・頼経(よりつね)とします(1226年)。しかし成人した頼経が自ら政権を握る意志を持ち始め、名越氏ら反北条派御家人を糾合する中心になっていくと、幕府は頼経を廃してその6歳の子の頼嗣(よりつぐ)を5代将軍とします(1244年)。その2年後、4代執権・北条経時(つねとき)の病死を契機に名越氏が前将軍の頼経と結んで政権奪取を企てたことから、兄経時の後を継いだ5代執権・時頼(ときより)は、名越氏の勢力を幕府から一掃するとともに、頼経を京都へ追放します(宮騒動、1246年)。

ところが今度は北条氏と並ぶ有力御家人の三浦氏と北条氏外戚の安達氏との対立が激化します。このような情勢の中でも三浦家当主の泰村は北条側と戦う考えはなく、時頼と和議の道を探り続けます。しかし弟の光村は戦も辞さないという強硬派でした。この頃、光村は讃岐守護に補されており、守護所のある宇多津には被官の長尾氏が守護代として派遣されていたようです。ちなみに、この長尾氏は戦国時代の上杉謙信の先祖ではないかという説もあるようです。

宝治元年(1247)6月、ついに安達氏が三浦邸を奇襲し、戦端が開かれます。光村は奮戦して兄泰村に決起を促しますが、泰村は最後まで戦う意志を示さず、兄弟は法華堂に立て籠もり一族500余名とともに自害します(宝治(ほうじ)合戦)。三浦氏が滅亡したことで、以後幕府内では北条得宗家の独裁体制が確立していきます。また讃岐では、光村の後、讃岐守護は北条一門が占めることになります。

北条時頼は隠居後出家して最明(さいみょう)寺入道と名乗りますが、僧に身をやつしたお忍び姿で諸国行脚したという「謡曲『鉢の木』」で知られるような伝承が各地に残っています。高松市塩江町には萩で知られている「最明寺」という寺がありますが、その縁起によると、元の寺名は如意輪寺というが行脚途中の時頼が再興したことからその入道名にちなみ改めたということです。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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