元寇の頃、甲斐国から来た武士

中世の讃岐武士(5)

column

2020.09.17

三豊市三野町下高瀬にある高永山本門寺

三豊市三野町下高瀬にある高永山本門寺

文永の役(1274年)・弘安の役(1281年)と2度にわたる元寇を経験した鎌倉幕府は、中国大陸や朝鮮半島からの侵攻に備えて西国の守りを固めるために、多くの東国御家人を西国に転封させるという政策を講じます。このとき、甲斐国巨摩(こま)郡秋山(現・山梨県南アルプス市)を本領としていた秋山氏が来讃しています。秋山氏は甲斐源氏武田氏の分流で、武田氏は源義家(八幡太郎)の弟の義光(新羅三郎)の子・義清のときに武田姓を名乗り、甲斐に土着した武士団です。戦国時代に活躍した武田信玄はその子孫です。

弘安年間(1278~88年)、秋山光季(みつすえ)は、幕府の命によって、孫の泰忠ら一族を引き連れて讃岐国へ移住し、三野郡高瀬郷(現・三豊市高瀬町)に居を構えます。そのとき、甲斐国に在住していた頃秋山氏は一族のほとんどが日蓮宗に帰依していたことから、日蓮六老僧の一人・日興にその弟子の日華(にっけ)を導師として讃岐に派遣するよう懇願します。しかし日華が病気のためそのおとうと弟子の日仙が派遣され、那珂郡柞原郷田村(現・丸亀市田村町)に法華堂を建立します。現在の番神宮がその旧跡だといわれています。しかし、折り悪くも田村の拠点が争乱に巻き込まれて灰燼(かいじん)に帰したため、泰忠は高瀬郷内の地を寄進し、再び日仙を迎えて正中2年(1325)に今の高永山本門寺を氏寺として建立します。その後本門寺では文安3年(1446)までの100年間に末寺6カ寺ができ、本門はこれら六坊に対して大坊と呼ばれました(高瀬大坊)。

京都における日蓮宗のはじめての布教活動は、永仁元年(1293)、日蓮の弟子の日像が京都へ入りしたときといわれています。讃岐は弘法大師空海をはじめ五大師を輩出し、古くから仏教の盛んなところですが、このような地に、東国生まれの新興仏教であった日蓮宗が、当時日本の中心であった京都よりも早く弘安年間に伝わっていたというのは非常に興味深い出来事です。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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