白峯山麓を舞台にした南北朝時代の戦(その2)

中世の讃岐武士(12)

column

2021.04.15

白峯合戦古戦場「三十六」=坂出市林田町

白峯合戦古戦場「三十六」=坂出市林田町

北朝側の細川頼之(よりゆき)と南朝側の細川清氏(きようじ)は宇多津と高屋(現・坂出市林田)で睨み合いを続けますが、形勢は頼之に不利でした。そこで頼之は伊予の河野通盛(みちもり)に味方につくよう要請しますが、通盛は動こうとしません。独力で清氏と戦う決意をした頼之は、時間をかせぐためにまず母の禅尼(ぜんに)を清氏のところに遣り和議の交渉を行ったといいます。頼之の母は清氏と昔からの熟知の間柄だったからです。頼之は日を延ばしてその間に兵力の増強を図ります。
細川将軍戦跡碑

細川将軍戦跡碑

兵力がようやく1千騎兵に達したところで、頼之は阿波守護代・新開真行(まさゆき)の策を入れ陽動作戦に出ます。貞治元年(1362)7月、まず、真行が一部の兵を率いて西長尾城(現・まんのう町長尾)へ向かい、中院源少将を攻撃するようにみせかけます。高屋城に居た清氏はこれにすぐさま反応し、高屋城の兵の大部分を西長尾城の救援に向かわせます。真行はその動きを見澄まして引き返し、翌朝、頼之と真行は二手に分かれて、手薄になっていた高屋城を急襲します。虚をつかれた清氏も自ら城を飛び出し戦いますが、あえなく味方の36人とともに討死します。この策は、清氏の自信と蛮勇を知ったうえでの策略だったといわれています。この戦を白峯合戦といい、「太平記」でも描かれています。合戦の地には「細川将軍戦跡碑」と清氏に殉じた36人の家臣を葬ったという「三十六(さぶろく)」があります。敗れた清氏は三木郡白山の麓に葬られたといいます。

勝利した頼之は、讃岐と土佐の守護に任じられ、既に持つ阿波・伊予守護を合わせて四国全体の守護となり、四国管領といわれます。この合戦から5年後には三代将軍足利義満(よしみつ)の管領となります。

ちなみに、この合戦では頼之の家臣で乃木備前次郎という人物が討死しています。日露戦争のときの旅順攻略で有名な乃木希典(まれすけ)大将はその子孫です。明治時代、乃木大将は、善通寺におかれた陸軍第11師団の師団長を務めており、赴任中に夫人と共にこの地を訪れ弔っています。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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