南北朝時代に細川氏の家臣となった讃岐の国人

中世の讃岐武士(14)

column

2021.06.17

香西氏の詰城があった勝賀山(東側、鬼無町から見た山容)

香西氏の詰城があった勝賀山(東側、鬼無町から見た山容)

南北朝時代、細川頼之(よりゆき)が白峯合戦に勝利すると、讃岐国内の国人(生え抜き武士)もことごとく頼之に服従します。主な者は、香西・新居・羽床・福家氏など(讃岐藤原氏の系統)、十河・神内・三谷の植田一族と寒川氏など(讃岐公<さぬきのきみ>氏の系統)、及び長尾氏など(讃岐橘<たちばな>氏の系統)です。

香西氏は、勝賀城(高松市鬼無町の勝賀山山頂)を本拠とし、香東・香西・綾南条・綾北条郡を支配します。頼之のときにその家臣となり取り立てられていきます。細川氏に随伴して常に京都にあって内衆(うちしゅう)として管領を補佐したり、山城・丹波国の守護代になるなど京畿でも活躍します。細川勝元(応仁の乱の東軍総帥)のときには信任を受け、長男は京都にあって勝元を助け上(かみ)香西、次男は讃岐の香西氏を継いで下(しも)香西とそれぞれ呼ばれていました。

十河氏は、十河城(高松市十川東町)を本拠とし、山田郡に勢力を張ります。十河氏が勢力を伸ばし始めたきっかけは、南朝方に奔った細川清氏(きようじ)が三木郡白山の麓に陣を構えて兵を募ったとき、その呼びかけにまず植田三郎景保(かげやす)の末子・十河十郎吉保(よしやす)が応じ、次いで長兄の神内次郎景辰(かげたつ)と次兄の三谷八郎景之(かげゆき)が加わったことにより、清氏が十河氏を植田一族の惣領に定めたことによるといいます。清氏が白峯合戦で北朝方の頼之に敗れた後、十河氏はその被官となり、十河遠久(とおひさ)は伊予国の目代に任じられています。戦国時代、十河氏は、阿波三好氏による讃岐支配の橋頭保(きょうとうほ)になるとともに、京畿で活躍します。

寒川氏は、代々寒川郡の郡司を務め、その後細川氏の被官となって東讃岐の大内・寒川郡と小豆島を領し、昼寝・挙山・虎丸等の諸城を構えます。しかし、次第に安富氏に押されていきます。

長尾氏は、三野郡筥御崎(はこみさき)の領主・海崎元高が、白峯合戦の功により、鵜足郡南部(栗熊・岡田・長尾・炭所)を与えられ、西長尾城(まんのう町城山山頂)を築き、名を長尾に改めたといいます。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
写真
歴史ライター 村井 眞明さん

歴史ライター 村井 眞明さん

記事一覧

おすすめ記事

関連タグ

メールマガジン登録
メールマガジン登録
ビジネス香川Facebookページ