
十河一存の墓は称念寺(高松市十川東町)の北約100mのところにある
十河氏は、今の高松市南部を根拠とする讃岐の生えぬき武士で、神内・三谷氏などが同族です。南北朝時代に細川氏に服しますが、阿波の三好元(もと)長(なが)の子・一存が十河景(かげ)滋(はる)の養子となり讃岐十河家を継いだことから、阿波三好氏の讃岐進出の橋頭(きょうとう)保(ほ)的存在となります。一存は、天文元年(1532)生まれで、天文3年生まれの織田信長とほぼ同世代です。その豪胆さから「鬼十河」と呼ばれました。
永禄8年(1565)、三好義継、三人衆、松永久通(ひさみち)(久秀の子)ら三好勢が京都二条御所を襲撃して、13代将軍・足利義(よし)輝(てる)を殺害します(永禄の変)。義輝が将軍権威の回復を図ろうとし、三好勢と対立したためです。義輝は武術に優れ(剣豪将軍)、自ら応戦したといわれています。しかし、今度は三好勢が分裂し、三人衆と松永久秀が対立して義継も久秀の方へ奔り、三人衆は久秀を討つために大和に出兵します(1567年)。東大寺大仏殿が炎上したのはこの時のことです。
足利義輝を倒した三人衆は、阿波出身の足利義(よし)栄(ひで)(義維(よしつな)の子)を14代将軍としますが、短期間に終わります。その後、永禄11年(1568)、織田信長が足利義(よし)昭(あき)(義輝の弟)を奉じて上洛し、15代将軍とします。約15年間にわたって畿内で覇を唱えた三好政権は瓦解し、松永久秀・三好義継は信長に降伏します。しかし、三好三人衆は信長に抗戦するも惨敗し、京を追われます。
村井 眞明
歴史ライター 村井 眞明さん
- 多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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