阿波の争乱から始まった三好支配の動揺

中世の讃岐武士(24)

column

2022.04.21

昼寝城は、さぬき市前山の昼寝山(455m・矢作山の北西中腹)に築かれた=さぬき市文化財保護協会提供

昼寝城は、さぬき市前山の昼寝山(455m・矢作山の北西中腹)に築かれた=さぬき市文化財保護協会提供

天正元(1573)年、織田信長が足利義昭を京から追放して室町幕府が事実上崩壊します。この年、阿波では、三好家重臣の篠原長房(ながふさ)が、弟・自遁(じとん)に讒言(ざんげん)されて三好長治(ながはる)に誅殺(ちゅうさつ)されるという事件が起きます(上桜城の戦い)。自遁が兄長房を陥れたのは、小少将との情交を兄に咎(とが)められたことを逆恨みしたためといわれています。小少将は阿波守護・細川持隆(もちか)の愛妾でしたが、三好義賢(よしかた)(実休)が主君である持隆を弑逆(しいぎゃく)した(1553年)後その妾となっていました。持隆と小少将との間にはすでに真之(さねゆき)という子がいましたが、義賢との間に生まれのが長治と弟の十河存保(まさやす)でした。

この事件を契機に、讃岐では、香西・香川・寒川氏ら有力国人たちが三好長治から離反する動きを見せ始めます。香西・香川氏は、元は細川京兆家の重臣で、かつて下の地位にあった三好の風下に立つことを嫌っていたのでしょう。寒川氏は、元亀2(1571)年に長治の命令により大内郡4郷と虎丸・引田の2城を召し上げられ虎丸城から昼寝城(旧長尾町前山)に退いていました。

これに対して、三好長治は、天正2(1574)年、寒川・香西氏を討つために讃岐に出陣し、寒川氏の昼寝城を攻めるとともに、香西氏の佐料・勝賀城を攻めますが、落とすことができませんでした。翌年の天正3年、長治は阿波勢を二手に分け、大窪越えと大坂越えで寒川領に侵入し、再度昼寝城を攻めますが、落城しません。そこで、三好軍は火攻めの準備にかかりますが、土佐の長宗我部元親の阿波侵攻が始まり、急遽阿波へ引き上げます。

また、この年、西讃では、香川氏が香西氏の援軍を得て三好氏に服する金倉氏(金倉城・丸亀市)を攻め滅ぼします(金倉合戦)。金倉氏は奈良氏(聖通寺城主)の那珂(なか)郡代官です。こうして讃岐における三好の勢力も衰退していきます。

天正5年、阿波では、三好長治が長宗我部元親の助力を得た細川真之に討たれます。この混乱に乗じて長宗我部元親の阿波侵攻が始まります。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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