天正6(1578)年6月、奈良勝政は、長尾高勝(たかかつ)(西長尾城主)、羽床資載(すけとし)(羽床城主)、香川民部(たみぶ)少輔(しょうゆう)行景(ゆきかげ)(西庄城主)など中讃の諸将を率い藤目城を攻撃し、長宗我部元親(もとちか)に降っていた斉藤師郷(もろさと)を追い払い、配下の新目(あらため)正安(まさやす)にこの城の守備をさせます。これに対し、元親は、この年の秋、まず本篠(もとしの)城の財田常久(つねひさ)を攻撃します。常久は信景に援軍を求めますが、信景は全く動こうとせず、常久以下二百の兵は皆討死します。続いて元親は、その年の冬、自ら五千の兵を率いて雪中の山脇越をして、新目正安以下五百の兵が守る藤目城を攻撃します。この時も信景は傍観したまま援軍を出さず、守備側は玉砕し、土佐側も七百の死傷者を出して城を奪還します。
信景に戦意が無いことを察した元親は、信景の弟・景全(かげはる)(高丸城主)を通じて帰服を勧め、両者は元親の次男・親和(ちかかず)を信景の娘の婿として迎え入れることで和議を結び同盟します。香川氏は元は讃岐守護・細川氏の西方守護代を務めた家柄で、三好の讃岐支配に最後まで抵抗した勢力でした。
しかし、香川氏の配下には長宗我部に下ることを潔しとせず抵抗する者もいました。翌年の天正7年、土佐勢は2月に九十九山(つくもやま)城の細川氏政(うじまさ)、続いて3月に仁尾城の細川頼弘(よりひろ)、そして爺神山(とかみやま)城の詫間景長(かげなが)と、西讃の各城を次々と攻略していきます。ちなみに、仁尾では自刃して果てた頼弘の命日にあたる3月3日には雛祭りを行わず、男の子の節句である八朔の日に女の子の雛節句も一緒に行うようになったといわれています。以後、香川氏の兵は長宗我部軍に組み入れられ、香川親和を大将に信景を後見として東に向かって進撃します。
村井 眞明
歴史ライター 村井 眞明さん
- 多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん
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