安芸の毛利軍と戦った讃岐武士

中世の讃岐武士(25)

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2022.06.02

南西側から遠望した櫛梨山(如意山)=琴平町観光商工課提供

南西側から遠望した櫛梨山(如意山)=琴平町観光商工課提供

10年間に渡る織田信長と石山本願寺との戦い(石山合戦)の最中の天正4年(1576)7月、信長は本願寺を完全包囲して経済封鎖します。これに対し、本願寺は安芸の毛利輝元(てるもと)に援助を求め、毛利配下の村上水軍などが織田軍を破り兵糧・弾薬を届けます(第1次木津川口合戦)。この頃、京畿では三好の勢力が衰退し、最後まで信長に抵抗していた三好康長(やすなが)(笑岩(しょうがん))もその配下となり、また、四国では阿波の三好長治(ながはる)と讃岐の十河存保(まさやす)(長治の弟)も信長に降ります。そして香川、香西、安富氏ら讃岐の諸氏も信長に服します。この年、天霧城主・香川之景(ゆきかげ)は信長から偏諱(へんき)をもらい名を信景(のぶかげ)と改めています。

こうした中、翌年の天正5年3月、信長は塩飽船の堺入港を保証して塩飽水軍を味方に引き込もうとします。ちなみに、本島(現丸亀市)には今も信長の朱印状が残されています。一方、三好・十河の圧迫を嫌った香川信景が毛利に近づき、この年の7月、毛利が家臣を元吉(もとよし)城(今の琴平町・善通寺市の境の櫛梨(くしなし)山山上(異説あり))に派遣して城の修繕を行わせます。これに対して、8月、三好方に属する讃岐勢が元吉城に籠る毛利勢を包囲したことにより、毛利の援軍が摺臼(すりうす)山に陣を構え、両軍が元吉城の麓で激突します。さらに毛利の援軍が堀江口(現多度津町)に上陸したため、それを阻止しようと出陣した長尾・羽床氏と交戦となります。

一連の戦いは毛利方が勝利し、長尾・羽床氏は、9月、信長に追放され毛利の領国の備後鞆(現福山市)に居る足利義昭に和議の調停を依頼します。こうして、11月に和議が成立し、長尾・羽床氏が毛利へ人質を差し出して毛利勢の主力は撤退し、翌年には残っていた部隊も安芸に帰還します。この戦いは、毛利が瀬戸内海の制海権を守るため、塩飽諸島に近い多度津の港を掌握する必要から、その南に位置する元吉城に毛利の拠点を香川氏と結び築こうとしたものと考えられます(異説あり)。しかし、天正6年11月、毛利氏は織田配下の九鬼水軍の鉄甲船に敗れます(第2次木津川口合戦)。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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