土佐武士の讃岐侵攻①(戦端開く)

中世の讃岐武士(26)

column

2022.07.07

観音寺市粟井町の藤目城址=観音寺市観光協会提供

観音寺市粟井町の藤目城址=観音寺市観光協会提供

天正3(1575)年に土佐を統一した長宗我部(ちょうそがべ)元親(もとちか)は、織田信長から「四国は切り取り次第」という言質(げんち)を得て四国制覇に乗り出します。天正5年には、三好氏の配下である大西氏の居城で、四国の中央に位置し交通の要衝である白地(はくち)城(三好市池田町)を降します。そしてここを兵站(へいたん)拠点として翌年から讃岐侵攻に着手します。ちなみに、この年、松永久秀が信長に討たれています。

長宗我部による侵攻直前の讃岐では、西から香川、奈良、長尾、香川(民部(みんぶ)少輔(しょうゆう))、羽床、香西、十河、安富、寒川の各氏が群雄割拠し、中でも香川、香西、十河の3氏が有力でした。十河氏当主の存保(まさやす)は、阿波三好家を継いで三好義堅(よしかた)として、かつて敵対していた織田信長に服していました。この頃、十河氏を通じた阿波三好氏の讃岐支配は揺らいではいましたが、未だ続いていました。

長宗我部は、白地城から最も近く、三好の影響力が最も弱い香川信景(のぶかげ)(之景(ゆきかげ))の領内から侵入し始めます。香川氏は、もともと多度・三野・豊田郡の3郡を支配していましたが、天正3年の金倉合戦により奈良氏から那珂(なか)郡を奪い、その頃は西讃4郡を直領していました。その領地の東側は北で奈良氏、南で長尾氏と境を接し、本台山(ほんだいやま)城(多度津町)に居を構えて天霧城を詰城(つめのしろ)としていました。その一族・配下は、四家老の香川元春(もとはる)・河田七郎兵衛(しちろうえもん)・河田弥太郎(よたろう)・三野菊右衛門(勝間城・旧高瀬町下勝間)のほか、詫間景長(かげなが)(爺神山(とかみやま)城・同町比地中)、近藤国久(くにひさ)(麻(あさ)城・同町上麻)、細川頼弘(よりひろ)(仁保城・旧仁尾町仁尾)、西谷藤兵衛(とうべい)(岡本城主・旧豊中町岡本)、細川氏政(うじまさ)(九十九山(つくもやま)城・観音寺市室本町)、香川景全(かげはる)(高丸(たかまる)城・同市観音寺町)、斉藤師郷(もろさと)(藤目(ふじめ)城・同市粟井町と旧仲南町の2説あり)、大平国祐(くにすけ)(獅子(しし)の鼻(はな)城・旧豊浜町)、財田常久(つねひさ)(本篠(もとしの)城・旧財田町)らです。

天正6年4月、長宗我部はまず藤目城の斉藤師郷を調略により降します。これに危機感を持った十河存保は香川信景と奈良勝政(かつまさ)(聖通寺城主)らに藤目城攻撃を命じます。

村井 眞明

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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