漆黒の宇宙へ 希望の天体望遠鏡が誘う

天体望遠鏡博物館 館長 村山 昇作さん

Interview

2016.06.02

旧多和小学校に開館した天体望遠鏡博物館=さぬき市多和

旧多和小学校に開館した天体望遠鏡博物館=さぬき市多和

動き出したら感動モノ

中学生の時、京都大学の花山天文台を見学した。初めて覗いた天体望遠鏡に衝撃を受けた。「漆黒の宇宙に土星や木星がぽか~んと浮かんでいる。あれにはびっくりしました」

夜空に輝く星達はもとより、その星を質感たっぷりに映し出す天体望遠鏡の虜になった。

それから半世紀余り。村山昇作さん(66)は天文愛好家の仲間と共に、さぬき市の閉校になった小学校にこの3月、天体望遠鏡の博物館を作った。市や企業の支援や、時にはメンバーが自腹を切り、10年程をかけて開館にこぎつけた。「世界広しと言えども、これほど多くの望遠鏡を置いてあるところはないと思います」

日銀マンから帝國製薬(東かがわ市)の社長に転身した。無農薬農園の共同経営、iPS(人工多能性幹細胞)技術を使ったベンチャーを手掛けるなど村山さんの人生は挑戦の連続だ。

「打ちのめされることも後悔することもしょっちゅうです。でも、何が起きても常に明るく前向きに考えてやってきました」

校舎に集められた古びた天体望遠鏡に囲まれて、村山さんはまた新たな挑戦を始めた。

動き出したら感動モノ

「どういう歴史をたどってここに来たのか。天体望遠鏡それぞれに深い物語があります」

全国各地の天文台や家庭で使われなくなった天体望遠鏡を、寄贈してもらったり安く買い取ったりして200台以上集めた。作られた年代も大きさも様々で、壊れて捨てられる直前だったものもある。

博物館では、村山さんら天文愛好家のボランティアスタッフが語り部となり、約1時間をかけて"望遠鏡物語"を話してくれる。

1970年代に五色台の少年自然の家で使われていた巨大な『五藤光学25センチ屈折赤道儀』は古くて動かなかったが、解体してクレーンで運び込み、モーターを取り替えるなどスタッフ総出で修理した。「あんなに大きな望遠鏡が動き出したら感動モノです。動いた時はみんなで『うお~』と盛り上がりました。この過程が一番面白いんです」

歴史的に貴重なものも多い。最も大きな『法月60センチ反射望遠鏡』は1970年代頃、海上保安庁が星を観測して海図の基準点を導き出すために使っていた。

『ユニトロン6インチ屈折ドイツ式赤道儀』は福岡の古道具屋で見つかった。「よくこんなものが出てきたなと思う。これこそヒューマンドキュメントです」。マニアの間では「幻の望遠鏡」と呼ばれるほど、生産台数が少なく国際的にも希少価値の高い望遠鏡だが、メンテナンスをしようと部品の塗装をはがしていたら「四国天文台」という刻印が見つかった。文献を調べると、四国天文台というのは1960年代頃に徳島の眉山にあった天文台だと分かった。「かつて徳島で使われていた望遠鏡が遠く離れた場所で見つかり、再び四国の地に戻ったということです」
村山さんが中学校時代に初めて買った「西村製15センチ反射経緯台」

村山さんが中学校時代に初めて買った「西村製15センチ反射経緯台」

天体望遠鏡の魅力に引き込まれた中学時代、小遣いを貯めて初めて手にした望遠鏡も展示している。サラリーマンの初任給が1万円程だった当時、6万円で買ったそうだ。「50年間使い続けました。あと50年経てばもっと価値が上がるんじゃないでしょうか」と村山さんは笑う。

出会ったチャンスは受け止める

「2つの違う道があれば、困難な方を選ぶのが私の信条。少し勇気を出せば違う世界が開けると思います」

大学を卒業後、日本銀行に入り、エコノミストとして経済調査や国の金融政策などに携わった。30年が過ぎた頃、高松支店長時代の縁で、帝國製薬から「来ないか?」と誘われた。経験のない製薬業に不安はあったが、ものづくりにも興味があり、「新しいところで新しいことをやってみよう」と思った。周りには「やめておいた方がいい」「日銀マンにビジネスができるわけがない」と言う人もいたが、逆にそれが背中を押した。「もう腹が立って腹が立って。それならちゃんとやってやるという気持ちになったのを覚えています」

帝國製薬で10年程社長を務めた後、一旦はリタイアしていたところ、次はiPSの実用化を目指す京都大学関連のベンチャーから誘われた。山中伸弥・京都大教授がノーベル賞を受賞する前年のことだった。専門的な知識は全くなかったが、やはり「困難な方」を選んだ。

「若くして亡くなった父親の影響かもしれない」と村山さんは話す。「過去はどうにもならないが、未来は自分でコントロールできる。私は、出合ったチャンスは素直に受け止めようと自分に言い聞かせているんです」

あの頃、僕もこうだった

京都で生まれ育った。四国や香川にゆかりはなかったが、仕事で縁が生まれると、どんどん好きになった。博物館を作るなら絶対に香川だと決めていた。「京都は排他的なところもありますが、香川の人は外からの人を温かく迎えるお接待の精神がある。人柄、自然、食べ物、全部好きですね」
博物館に姿を変えたさぬき市多和地区の旧多和小学校は児童数の減少で、2012年に閉校になった。地元の人たちからは「校舎を全部改装して博物館を作るんですか?」と尋ねられた。「改装なんかしませんよ」と答えると、皆一様に「よかった」と安堵し、労を惜しまず無償で準備を手伝ってくれた。
博物館の運営を支えるボランティアスタッフの皆さん

博物館の運営を支えるボランティアスタッフの皆さん

「地元の人たちにとって多和小学校は心の故郷。愛着をひしひしと感じます。だから大事にしたいと思ったんです」

小学校の机やイスを展示に活用し、黒板も残した。プールは埋め立てて大型望遠鏡を並べたが、「配管などはそのままです。コンクリートをはがして土を取り除けば、またプールにできるようになっています」

博物館が成功してにぎわいが生まれれば、過疎が進む多和地区に人が戻ってくるかもしれない。いつか訪れるかもしれないその日のために、村山さんはいつでも小学校が再開できるようにしている。実際、九州の望遠鏡メーカーの社長が「望遠鏡の世話をしたい」とさぬき市に移り住んだという。「出生率が上がったとしても人口が増えるには何十年もかかります。今世紀中には来ないかもしれない。でもいつか、そんな日が来れば良いですよね」

子どもたちが天体や自然に触れる機会が減っていることも、博物館を作った理由の一つだ。「特に都会では、太陽が山や海に沈むのを見たことのない子がいる。子どもたちにはぜひ、大きな望遠鏡で星を見てほしいです」

先日来館者の中に、展示している望遠鏡を一つ一つ熱心にカメラで撮影している中学生の男の子がいた。そばにいた母親は「この子、とにかく望遠鏡が好きで好きで・・・・・・」とあきれ顔だったが、村山さんはその光景がうれしくて仕方なかった。「昔の自分に出会った気がしたんです。あの頃、僕もこうだったなと」

大型の望遠鏡がさらに1台加わる計画があるそうだ。「今あるものと比べても一番の、びっくりするくらいの大きさです。運び込みだけでも一大作業ですよ」。少年のような瞳で、うれしそうに村山さんは話した。

編集長 篠原 正樹

村山 昇作 | むらやま しょうさく

1949年 京都市生まれ
1972年 同志社大学経済学部 卒業
    日本銀行 入行
1979年 カリフォルニア大学(UCLA)
    経済学修士
1981年 日本銀行ニューヨーク事務所
    エコノミスト
1994年 高松支店長
1998年 調査統計局長
2002年 帝國製薬 代表取締役社長
2010年 天体望遠鏡博物館 代表理事
2011年 iPSアカデミアジャパン
    代表取締役社長
2014年 iPSポータル 代表取締役社長
写真
村山 昇作 | むらやま しょうさく

一般財団法人 天体望遠鏡博物館

住所
さぬき市多和助光東30-1(旧 多和小学校)
事業内容
天体望遠鏡の収集・修復・展示、教育・啓発活動 他
開館日
土曜、日曜、祝日の月曜・金曜
(館内見学はツアー形式)
開館時間
10:00~16:00
(受け付けは15:30頃まで)
基本料金
大人(一般)300円
高校生・大学生200円
小学生・中学生100
地図
URL
http://www.telescope-museum.com
確認日
2018.01.04

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