瀬戸内海は穏やかな海だったのか
-私の七十年と海の変貌-

工代祐司

column

2026.05.07

公園北西、楠の森に佇む「自由の碑」(高松市提供) 【中河与一:1897(明治30)年 現坂出市生まれ】

公園北西、楠の森に佇む「自由の碑」(高松市提供)
【中河与一:1897(明治30)年 現坂出市生まれ】

讃美の海

高松市中央公園には、小説『天の夕顔』で知られる作家・中河与一の文学碑「自由の碑」がある。明治生まれの作家の先輩には菊池寛がいるが、中河は風土と結びついた内面的主題に向き合い、とりわけ瀬戸内の風景と深く関わる作品を残した。

文学碑には自筆の文字で「自由なる人永遠に 海を愛さむ」と刻まれている。中河が愛したシャルル・ボードレールの詩「人と海」の一節である。

中河はこの言葉に、瀬戸内に生き、瀬戸内海に親しんで育った自らの想いを重ねた。少年時代、海で泳ぎ、舟を漕ぎ、帆を走らせ、その恵みの中で育った日々。そこには、ボードレールが詠ったように、すべてが解き放たれる自由があった。海を見るたびにこの詩を思い出し、瀬戸内の美と意味を問い続けていた。

彼にとって瀬戸内海は讃美すべき海であった。穏やかで美しく、人の精神を育む海として。

激変の七十年

長い間、瀬戸内海は人とともに生きてきた海であった。漁を営み、塩田が広がり、人と物、文化が行き交う海。海と折り合いをつけながら暮らし、その恵みを分かち合ってきた。

私が生まれた1950年代半ば、日本は高度成長期に入った。物心がついたころは、まだのどかな海が残っていた。しかし小学校の頃には、香川県にも工業化と開発の波が押し寄せた。

埋立てや水質の悪化、海砂採取などにより、海の環境は急激に変わっていった。同時に島からは都市部へ人口が流出し、漁業など産業も衰退していった。豊島の産業廃棄物投棄問題など離島性を背景とした不幸な事案も発生した。

瀬戸の縁側から

私は瀬戸内で育つ中でこの変容を見てきた。やがて行政の立場からこの海に向き合ってきた。幼い頃からの記憶と、政策として対峙した課題が、いま備讃瀬戸の風景と重なり合っている。

瀬戸の縁側に座り、海を眺めるように、少し距離を置きつつ、この海の歩みを見つめ直したい。瀬戸内海の七十年を、①開発の海、②葛藤の海、③再生の海という三つの時代として、これまでの体験と行政経験をもとに考えていきたい。まずは、大きく揺らいだ時代、「開発の海」からたどる。
(文 工代祐司)

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