渋沢栄一と親交のあった讃岐人

香川県中小企業団体中央会 村井 眞明

column

2017.04.20

中野武営(出典:国立国会図書館ウェブサイト「近代日本人の肖像」)

中野武営(出典:国立国会図書館ウェブサイト「近代日本人の肖像」)

高松藩は明治維新の際、鳥羽伏見の戦いで賊軍となったため、その出身者は長らく中央で活躍することができなかったという話をよく聞きます。実際明治以降終戦まで香川県出身の陸海軍大将は1人もいません。しかし、香川県人にも、明治から大正初期にかけて中央政財界で活躍した人物がいます。旧高松藩士の中野武営です。

武営は、嘉永元年(1848)に、高松藩勘定奉行の子として高松市旧西通町 に生まれ、藩校講道館で学びます。幕末、高松藩は親藩であることから佐幕派が有力なものの、水戸斉昭の影響を受けた尊王派もいました。血気盛んだった武営は、尊王派の重鎮である松崎渋右衛門を謀殺する計画に加わろうとしましたが、父に諭され実行を断念したといいます。

20歳の頃明治維新を迎え、明治5年(1872)に新たに設けられた香川県庁の役人となり、後に農商務省権少書記官となります。おそらく仕事ができたので、旧高松藩士であるにもかかわらず、中央政府の官僚に登用されたのでしょう。しかし、明治14年の政変で大隈重信に従い辞職し、立憲改進党の結成に加わります。その後、愛媛県会議員となり、愛媛県会議長となります。このとき、讃岐は愛媛県に編入されていましたが、武営が尽力したことにより、明治21年に分離独立し、現在の香川県に至っています。

そして、明治23年の国会開設以来、高松を地盤に衆議院議員に以後8回連続当選します。この間、実業家としても活躍し、東京株式取引所理事長、関西鉄道社長などを歴任します。その後、明治38年には渋沢栄一の後を継いで東京商業会議所(東京商工会議所の前身)の第2代会頭に就任し、以後12年間務めます。さらに東京市会議員、議長を務め、大正7年(1918)、70歳で没します。

武営は今に至る香川県の恩人ともいえる人ではないかと思います。それは彼に元高松藩士であるという誇りがあったからではないでしょうか。墓は高松城下最北端の寺である浜ノ町の海室山蓮華寺にあり、この寺には武営の「皆倶成佛道(かいぐじょうぶつどう)」という揮毫も残っています。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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