二つある高松城

香川県中小企業団体中央会 村井 眞明

column

2017.06.15

古高松地区(高松市高松町)にある「高松城趾」の石碑。

古高松地区(高松市高松町)にある「高松城趾」の石碑。

日本三大水城の一つに数えられる高松城は、玉藻城ともいい、天守閣は失われたものの、今も高松市のシンボルとなっています。これとは別に「高松城」と呼ばれた城が屋島の南にありました。

今から約680年前、後醍醐天皇による建武の新政で功をあげて讃岐守護となった舟木頼重(高松頼重)は、屋島南に築城します。この城は、元々はこの城の辺りが「高松」という地名だったところから、「高松城」と呼ばれていました。しかし、足利尊氏が後醍醐天皇に反旗を翻したことから、この城は築造まもなく尊氏の配下である細川定禅(じょうぜん)によって落城します。

その後再建されますが、最初の落城から約250年後の天正13年(1585)、この城は再び落城します。その頃、四国は土佐の長宗我部元親により統一されていましたが、豊臣秀吉は四国を平定するため、弟の秀長を大将に大軍を送り込みます。讃岐で最初に攻撃の目標となったのがこの高松城でした。このとき、元親側の讃岐武士約200人がことごとく討死しています。これにより讃岐の戦国時代は終わりを告げ、近世の幕が開きます。また、この戦いは讃岐国内での最後の戦でした。

その後、秀吉は、讃岐一国を、仙石秀久、尾藤知宣を経て生駒親正に与えます。天正15年(1587)、讃岐入りした親正は、当時「箆原荘(のはらのしょう)」と呼ばれていた地に新たな城を築きます。この辺り一帯は、当時、香東川の河口から海に繋がるデルタで水草の茎根が波に洗われ、玉藻浦とも呼ばれていました。この地に新たに築いた城の名は源平合戦以来全国によく知られた高松の地名をとって高松城とされ、元の高松の地は以降「古高松」と称されました。なお、旧高松城跡は現在お寺の境内となっており、喜岡城とも呼ばれています。

生駒氏の讃岐での治世は4代54年間で終わり、その後、讃岐は東西に分割され、高松城には徳川家康の孫にあたる松平頼重(よりしげ)が入り、幕末まで松平氏の居城となります。普段何気なく使っている地名にも意外な歴史が秘められていることは、興味深いことです。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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