天誅組蜂起に加わろうとした勤王一家

シリーズ 維新から150年(6)

column

2018.09.20

高松市円座町にある小橋安蔵の墓

高松市円座町にある小橋安蔵の墓

文久3年(1863)は、幕府が5月10日を攘夷決行日としたことにより攘夷の機運が盛り上がった年でした。このような中、急進派公卿の工作により、8月13日、孝明天皇の大和行幸、攘夷親征の詔勅が発布されます。この計画は、大和行幸の機会に天皇が攘夷の実行を幕府将軍及び諸大名に命じ、幕府がこれに従わなければ長州藩が錦の御旗を関東に進めて徳川政権を一挙に倒すというものでした。

この時、土佐脱藩浪士・吉村寅太郎(とらたろう)らは天誅(てんちゅう)組を旗挙げし、行幸の先鋒となるべく大和国へ向かい、8月17日には五條代官所を襲撃し、自ら「御政府」と称します。讃岐でもこの動きに呼応して、小橋安蔵の一族が草莽の志士としてこの蜂起に加わろうとしていました。

小橋家は、今の高松市円座町に居を構え、家長の安蔵(号は香水)は漢学と和算を学び、後に大坂や江戸に遊学して尊王攘夷思想を持ちます。父・道寧(みちやす)は花岡青洲に学んだ医者であり、儒学者でもありました。次弟の順二(号は龍山)は木内家に養子に入り、兄の相談相手として思想面から大きな働きをします。妹の箏子(ことこ)は、丸亀の村岡家に嫁ぎ、醤油醸造業を営み、兄らの尊攘運動を経済的に援助します。末弟の多助(号は橘陰(きついん))は、江戸に出て市中の情勢や幕府の動きなどを兄に知らせ続けます。また、安蔵の娘婿である木田郡田中村の太田次郎も尊攘運動に身を挺します。さらに、安蔵の息子の友之輔(とものすけ)と箏子の息子の宗四郎も、若い頃から尊攘運動に身を捧げます。

天誅組蜂起に加わろうと、友之輔・次郎らは、村岡家に隠しておいた武器弾薬を船に積み込み丸亀を出港し、京都に向かいます。安蔵・龍山・宗四郎はあとを追って出発する予定でした。

しかし、文久3年8月18日に京都で起きた政変により長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿が京都から追放され、安蔵らの決起行動も失敗に終わります。

次回(10月18日号)は、元治元年(1864)6月の池田屋騒動のときの話です。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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歴史ライター 村井 眞明さん

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