この時、土佐脱藩浪士・吉村寅太郎(とらたろう)らは天誅(てんちゅう)組を旗挙げし、行幸の先鋒となるべく大和国へ向かい、8月17日には五條代官所を襲撃し、自ら「御政府」と称します。讃岐でもこの動きに呼応して、小橋安蔵の一族が草莽の志士としてこの蜂起に加わろうとしていました。
小橋家は、今の高松市円座町に居を構え、家長の安蔵(号は香水)は漢学と和算を学び、後に大坂や江戸に遊学して尊王攘夷思想を持ちます。父・道寧(みちやす)は花岡青洲に学んだ医者であり、儒学者でもありました。次弟の順二(号は龍山)は木内家に養子に入り、兄の相談相手として思想面から大きな働きをします。妹の箏子(ことこ)は、丸亀の村岡家に嫁ぎ、醤油醸造業を営み、兄らの尊攘運動を経済的に援助します。末弟の多助(号は橘陰(きついん))は、江戸に出て市中の情勢や幕府の動きなどを兄に知らせ続けます。また、安蔵の娘婿である木田郡田中村の太田次郎も尊攘運動に身を挺します。さらに、安蔵の息子の友之輔(とものすけ)と箏子の息子の宗四郎も、若い頃から尊攘運動に身を捧げます。
天誅組蜂起に加わろうと、友之輔・次郎らは、村岡家に隠しておいた武器弾薬を船に積み込み丸亀を出港し、京都に向かいます。安蔵・龍山・宗四郎はあとを追って出発する予定でした。
しかし、文久3年8月18日に京都で起きた政変により長州藩を主とする尊皇攘夷派と急進派公卿が京都から追放され、安蔵らの決起行動も失敗に終わります。
次回(10月18日号)は、元治元年(1864)6月の池田屋騒動のときの話です。
歴史ライター 村井 眞明さん
- 多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
- 写真
歴史ライター 村井 眞明さん
おすすめ記事
-
2023.06.01
美濃から来讃した生駒氏
シリーズ 中世の讃岐武士(34)
-
2023.04.20
九州で島津軍と戦った讃岐武士
シリーズ 中世の讃岐武士(33)
-
2023.03.02
秀吉軍と戦った讃岐武士
シリーズ 中世の讃岐武士(32)
-
2023.02.02
土佐武士の讃岐侵攻⑥(東讃侵攻)
シリーズ 中世の讃岐武士(31)
-
2022.12.15
土佐武士の讃岐侵攻⑤(十河城包囲)
シリーズ 中世の讃岐武士(30)
-
2022.11.03
土佐武士の讃岐侵攻④(香西氏の降伏)
シリーズ 中世の讃岐武士(29)
-
2022.10.06
土佐武士の讃岐侵攻③(中讃侵攻)
中世の讃岐武士(28)
-
2022.03.17
イリコの島に残る戦国秘話
中世の讃岐武士(23)
-
2022.02.17
三好の畿内奪還の戦いで信長軍と対峙した讃岐武士
中世の讃岐武士(22)
-
2021.12.16
讃岐を支配した阿波の三好氏
中世の讃岐武士(20)
-
2021.11.18
東讃から始まった讃岐の戦国時代
中世の讃岐武士(19)