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高松城の南の出城といわれる寺

香川県中小企業団体中央会 村井 眞明

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2018.02.15

法然寺の五重塔

法然寺の五重塔

高松城から約10km真南に高松松平家の菩提寺である仏生山来迎院法然寺があります。この寺は、高松初代藩主松平頼重公が、那珂郡小松荘(現在のまんのう町)にあった法然上人ゆかりの生福寺古跡を移転・再興したものです。

法然は、平安時代末期の長承2年(1133)、美作国(現在の岡山県北部)に生まれ、比叡山で修業し、43歳の時にいかなる者も、一心に「南無阿弥陀仏」と念仏を唱え続ければ極楽往生できるとする「専修念仏」の思想に開眼し、浄土宗を開きます。その教えは、庶民はもとより武士や公家にも急速に浸透していきました。しかし、鎌倉時代の初めの建永2年(1207)2月、74歳の時、弟子の不行状を理由に四国へ配流されます。法然は本島を経て、小松荘の生福寺に滞在し、布教に努めたといわれています。法然の讃岐在国はわずか10カ月でしたが、今も讃岐には数々の足跡が残っています。

それから約四百数十年後、江戸時代初期の寛永19年(1642)に松平頼重が讃岐に入封します。徳川宗家は江戸に移った際に浄土宗の増上寺を菩提寺としており、高松松平家も浄土宗に帰依していました。こうしたことから、この頃には既に荒廃していた生福寺を仏生山の地に移転再興し、名を法然寺と改め菩提寺にしたというわけです。そして、移転先を仏生山としたのは、周囲を山や池・堀に囲まれ、高松城下を一望でき、交通の便もよいことから、いざという時の高松城の南の出城とすることも考えてのことだといわれています。落慶法要が行われたのは寛文10年(1670)です。

法然寺は京都の浄土宗四カ本山に準ずる格式の寺とされており、また、その釈迦涅槃像は、江戸時代から、京都嵯峨野の清凉寺にある釈迦如来立像に対して「嵯峨の立釈迦、讃岐の寝釈迦」として知られています。

法然上人が亡くなって800年目にあたる2011年には、頼重公の悲願であった五重塔建立が、約300年越しに実現しています。法然寺に行けば、田園の広がる高松平野の真ん中にもかかわらず、京都の巨刹を訪れたような雰囲気を感じることができるでしょう。

歴史ライター 村井 眞明さん

多度津町出身。丸亀高校、京都大学卒業後、香川県庁へ入庁。都市計画や観光振興などに携わり、観光交流局長を務めた。
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